嘘つきバービー

 ハンガーから垂れ下がるワンピースが絞殺体に見える。

 そう思ってはっとした彼女があたりを見回すと、部屋を埋め尽くす衣類全てが、グロテスクな意味変換を遂げていた。

 脱ぎ捨てられたままの形をほのかにとどめているジャケットは、中身を食い尽くされた人間の皮。それに重なる赤いスリップは踏むと滑る血溜まり。脱ぎ散らかしたソックスが何種類も絡みあって、分断された腸。ベッドの上に大の字に寝そべる前開きのロングコートは、縦に裂かれて臓物を取り出された後の死体なのか。そばに転がるベルト。鞄。ハット。ネックレス。遺品のように。脱いだ形のままのストッキング。左右が逆方向を向いているピンヒール。ぐしゃぐしゃのスカート。半分裏返ったブラウス。強姦殺人現場のように全て脱ぎ捨てられたままの痕跡。背中のファスナーが半分開いたままもつれて重なりあうワンピース、ワンピース、ワンピース。

 一体この部屋で何人死んだというのか。今、一度に死んだ、一度に死んだ。

 夢見る虹色の試着室であったはずの彼女の自室は、彼女がその郵便物を開いた瞬間、色彩が飛び散る生臭い汚物部屋に変わった。半角カタカナの連なる利用明細を見ても異国の言語のようで、何の感慨も無い。何も思い出せない。

 魔法のカードを使って、何故ここまで買ってしまった……?

 思い出せないのが彼女の罪。服だらけの部屋でどれにも手を出さずに下着姿で佇むのが彼女の罰。

 彼女にとって買い物は楽しいものではなくただの過呼吸だった。肺が破裂しそうになるほどに吸って、吸って、吐き出されたのは血より鮮やかな有害色のスプラッタと利用明細。着ていく場所も無いのだから、デパート売場から請け出された洋服たちは、再びこの狭い部屋に閉じ込められることになる。フルーツパフェの色合いを溶かし出したようにカラフルなワンピースに身を包み、別の姿に変身した自分が鏡の前を何往復もして、ふとそのことに気付いて視界がモノクロームになるほど醒めて、それでも再びデパートに繰り出す。それが彼女のピッチの速い呼吸。空しさに気付いても気付かぬ振りをし続けるしかなかった。デパートに行けば気分は華やいだ。あの建物の中だけ重力が薄いのではないかというくらい、一歩足を踏み入れた途端に足取りが軽くなった。心も浮いた。何度行っても、その効果は薄れなかった。自分の部屋を、自分のお気に入りのものだけが置いてあるデパートにしたいと思ったし、実際そのようになりつつあったし、なりつつあればもっと完璧にしたくて再びデパートに通った。デパートの品物だけでなく、その空気や高揚感まですべて自分の部屋に持って来られると思っていた。

 何も着る気が起きないのは初めてだった。恐ろしいデフォルトだった。プレーンな下着姿で、布地の海の中に体育座りする。自分の姿が鏡に映っているのが見えた。二十をいくつか過ぎた、美人でなくもない自分の身体は傍から見れば色気を喚起させるはずのものだったが、彼女自身には恐ろしく貧相に見えた。何も飾っていない、初期状態。昔遊んだ着せ替え人形を思い出した。一番安いバージョンの、服を着てない、伸縮するジャージー素材の白いタンクトップとパンツを身につけただけの、胸ペタの。あれと同じだと思った。

 私はこの世に用が無い。捨てられた人形。袖を通す気力さえ無い。自力では何も出来ない。・・・・よく考えたらするべきことも無い。今まではただ、可愛い洋服を着て、ピンヒールの上に内股で乗っかればよかった。そうすれば、美味しいものも、洒落た場所に出入りする洒落た休日も、落ち着ける体温もぬくもりも、何より装う機会が手に入った。それら一連のものを与えてくれるあの人への愛着を、愛というのなら、愛だし、違うといえば違うとも言えるのかもしれなかった。彼女が一番愛するのはデパート。

 そんなに急に止めろと言われても、購買欲は止まらない。一方的に別れを告げられても、混乱の末むしろ欲は加速した。崖から転げ落ちるように止まらなかった。買った覚えの無い服が部屋の中にいくらでもあった。値札が切れてない服も多かった。大きめの花柄の、ハイウエストの三段ティアードミニスカートは曜日の数ほどあった。シフォン素材でパフスリーブの、胸の下でリボンを結ぶタイプの白いトップスは、その倍あった。記憶が曖昧だから、手持ちのものと同じものを、何度も買ってしまうのだった。……途方に暮れた彼女が天井を見上げ、目を閉じ、再び目を開けた時、部屋の衣類が増えたように思った。まさか。服はまるで厚みにむらのある絨毯のように床を埋め、地層のように、彼女の買い物の歴史を表していた。右手のすぐ下を掘り起こすと、全く買った覚えの無い、彼女の趣味でもない、古着屋ででも売っていそうな六十年代風サイケ柄のリボンタイ付きシャツが出てきた。これ、誰の? 他人の服が涌いているのか?

 部屋の床が抜けて落下死しないだろうか。服の底無し沼に引きずり込まれて溺死しないだろうか。そんな鉛直方向の不安とは裏腹に、輝かしいまでのスコアを叩き出している利用明細。彼女は頭が弱いわけでも計算が不得手なわけでもなかった。しかし今月の合計金額のケタの数は、そう、曜日の数だった。

 皮肉な成績。

 過去最高の。文字通り、桁違いに、断トツの。

 彼女の頭蓋骨の裏側にこびりついていた言葉たちが、たった今、彼女の心の湿気を吸って何倍にも膨れ上がり、暴れ回った。「買い物中毒」「心の隙間を買い物で満たしている」「買い物以外に趣味が無いなんて」「着飾るだけが趣味の頭の弱い女の子」。今までなら、自分の財布を超えない範囲で何をしようが絶対に責められるべきではない、と思って、これらの言葉を跳ねのけることが出来た。しかし今、それを遙かに超えてしまった彼女はもはや無防備だった。自分を守る言い訳を思いつく何倍もの速度で罵りが頭の中を巡る。巡る。

 ショーケースに入った不幸。ワンパターンの愚行。「仕方無かった」「今だけ」言い訳さえもステレオタイプで、自分の身を守るどころかむしろ傷付ける。

 「選べる」なんて嘘。「何でもとり揃えている」なんて嘘。「ファッションで自分を表現」とか、「その人らしさを演出する」とか、全部嘘。行き着くのはレディメイド。大量生産の、ありふれた不幸。

 誰でしたっけ、「幸せの形はひとつだが、不幸の形は無数にある」と言った人は。

 無数の他人と共有する、型どおりの不幸のイメージに、自分が嵌められた時こそ、一番の不幸。

 着せ替えバービーの不幸。オモチャ屋に、夥しい量陳列されている、縮小版の人間。あれか。私はあれになりたかったのだろうか?

 幼少の頃彼女は人並みに着せ替え人形で遊んだ。遊んだ、というより、独りでこねくりまわしていた。自分より小さい、喋らぬ人間。手のひらの中の漠とした重みと妙にしっとりとした質感。それを感じながら、不思議と見つめていた。焦点が合わぬような、遠くを見ているような目つきで、微笑を浮かべている人形。正面を向かせ、自分と目を合わせてみても、自分のことを見ていないように見える。何か気に食わなくて、思い切り髪を引っ張って、それでも表情は変わらないのだから、後味の悪い気持ちと、指の間に絡まる数本の化学繊維だけが無為に残った。

 とはいってもそんな違和感はすぐに消えた。母親の趣味で沢山の着せかえ人形を買い与えられていた彼女の家に、その人形目当ての友達が入れ替わり来るようになると、正しい遊び方と愛し方を知った。

 彼女の家には、人形用の家もあった。大きな箱型の家は左右のつまみを持って開くと家の内部が出て来て遊べる。テーブルも食器棚も、中の家具は全て全てレースだったりピンクだったり花のレリーフ付きだったりと愛らしかった。今思うと、その箱の中にはきっとデパートと同じ空気が濃密に閉じ込められていたのだろう。これを目当てにやって来た友達がその箱世界を開ける瞬間、彼女らの瞳が歓喜の桃色を映し出すのを見て、彼女の瞳も、同じ色を浮かべることを学んだ。彼女の家には女の子の人形だけでなく、パパ、ママ、犬の人形まで揃っており、それは彼女自身の家族構成と全く同じだった。家の中の小さな家。そう言えば家の中の家具も、母の趣味でずいぶんロマンチックだった。カーテンの裾、枕のカバー、椅子の脚、すべてに母のエプロンと同じく、フリルやレースがついていた。そっくりだったじゃないか、人形の家と。いや、もしかしたら、自宅のことを思い出しているつもりが人形の家を思い出しているだけかもしれない。うすぼんやりした意識の彼女にはもはや判然としない。

 人形の髪を引っ張ったり、指の先を爪で潰そうとしたり、洋服の首のところのマジックテープをきつ過ぎるくらいに閉めてみたりすることは徐々に減り、そのうち人形への根拠無い悪感情は全て消えた。

 消えてしまうと今度は良い感情が芽生えはじめた。母はその傾向を大いに強めた。彼女が少しずつ人形のことに興味をもつようになると、大喜びし、湯水のように服や小物を買ってきた。彼女が新商品を欲しがると、いや欲しがらなくてもカタログを見せて欲しがるように仕向けて購入するくらいだった。母の人形好きに異様さを感じ始め、あまり良い顔をしなくなってきた父に対して、堂々新作を買う口実が出来ると思ったのかもしれない。

 そのうち「なりきりシリーズ」などという名前の、人形の服と同じデザインの子供服が発売されると、母は勿論購入した。それを着た自分と鏡の中で初めて対面した時の感覚は、今でも鮮烈に思い出せる。ぎくりとしたのだ。悪戯がばれた時のように。みぞおちのあたりにある心の急所を爪の先できゅうっと奥に押し込められたような感覚。少し痛くて苦しくて、歯痒く、昂る感じ。プロポーションや目鼻立ちは人形からかけ離れているが、自分の身体を使って、着せ替え遊びが出来るのだ。とろんと溶けたように異様に甘い、母のまなざしが、その確信を更に強めた。それはそれまで、自分に対して向けられたことの無いまなざしだった。

 母の分身であり、母に愛される私はバービーの分身だ。

 母の目はバービーを見る目だった。

 今思えばその、みぞおちの急所を爪の先で押し込められたような感覚が刻印だった。それがのちのちの彼女の人生にまで押し込まれ続け、成長した彼女をデパートに向かわせたのだ。

 その刻印は、彼女が買いたての服に初めて袖を通して自室の鏡の前に立った時に、何度でもうずき、彼女をくすぐった。

 ノスタルジイ。

 今、彼女は鏡の中の自分と対面している。彼女が彼女自身を見つめ返すその目は、あの人形そのものだった。うつろで、どこを見ているのかわからぬ、無機物のような瞳だった。パーマやカラーの繰り返しでギスギスになった髪の手触りも、まるで真似たかのように同じだった。ぱさついたその感触が幼少の記憶を呼び起こした。閃光のように、苛立ちがフラッシュバックした。思い切り引っ張っても何ら苦しい表情を浮かべなかった。固まりきった表情も、まるで同じだった。成長した彼女に増えたのは憎しみと腕力で、あの時の何倍もの量と長さが指の間へと絡めとられた。化学繊維に似た、死んだ細胞。

 はじめの直感を信じていれば良かった。友達や母に染められる前から、自分の中にあった、野生の動物のような素朴な警戒心を、したたかに育て続けるべきだった。

 トイレも無い家に住んでいる少女。何も食べられぬほど小さな口をしている。はじめからおかしいと思っていたのだ。

 騙されてしまった。ああ、あんたは嘘つきバービー。可愛くて美人で無表情で、従順で、そうして着飾れば幸せになれると思わせた。子供に嘘を吹き込んだ。まるごと信じて、身ぐるみ剥がれた私は偽物バービー。

 幼少の頃、人形の指を爪の先で潰そうとしたのと同じ強さで、今、自分の指を圧した。食事も風呂もなおざりにしてデパート通いに明け暮れていた彼女の皮膚の弾力は塩ビ以下だった。圧迫を跳ね返す気力も無い肌は容易に凹んだ。人形と違うのは、圧迫された指の先端で、血の色がどんどん濃くなっていくことだった。人形には血液が無い。哀れなバービー。自分に血液が流れていないとでも思っていたのか。

 彼女の母は人形の家のように我が家を飾り、フリルとレースのついた服を好んで着た。そんな格好が似合う若くて愛らしい妻をもち父も誇らしげだった。父は愛情を更なるフリルとレースで表現した。そのままでいれば、母はずうっと、大好きなフリルとレースの中で生きていられた。でも母はバービーになりきれなかった。余所の男の子供を孕んだ母は、ドールハウスの外へ追い出された。若くて貧しく定職もないその男は、間もなく母と子を捨てて去ったと聞いた。父は母を呼び戻しなどしなかった。残された小さな身代わりに、溺れるほどの愛を注いだ。父の愛情表現は暖かい言葉でもぬくもりでも、オモチャでも甘いケーキですらもなく、やはりフリルとレースだった。母の二の鉄を踏まず、自分こそは、うまくやろうと思ったのに。やはり母と同じではないか。

 バービーは妊娠してしまった。

 はじめは幸運だと思ったのだ。これを期に、彼女が一番愛するものをずっと受け取り続けられるよう、約束をしようと思った。母と同じミスは絶対しない覚悟だった。しかし男は逃げ出した。彼女と、突然増えたもう一人とを、一度に背負う覚悟は無かった。

 爪が皮膚に食い込む接触点から血が滲み出始めた。こんな末端にまで血液が行き渡っているのが憎らしかった。この液体を全身に巡らせているのはポンプの心臓だろうが、それが涌き出す根源的な場所は胎の奥に違いない、と彼女は思った。赤黒く、どろどろと、粘着的で、彼女を煩わる。

 やっぱり失敗しちゃった。駄目じゃない、偽物バービー。

 お仕置きを、しないとね。

 彼女が昔よくやっていたのは、人形のクローゼットルームに付属しているハンガーに人形の顎をひっかけて吊る、という方法で、友達にもなぜか異様に受けがよかったのでよく覚えていた。人形たちが演じる家族ごっこの中でバービーが悪いことをすると、よくこうされた。

 彼女は、服が飛び散るスプラッタの中から、食い残しの小骨のように突き出ているハンガーを見つけ、掴みとった。絞殺体のように垂れ下がるワンピースの隣のフックが丁度空いている。

 帰ろう。もうごっこ遊びはおしまい。 

2009年 / 5,797字(16枚)

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