作文模範少年

「よーく思い出して書いてね」

 机の間を周回しながら先生は云った。黒板には、先生の字ででかでかと『自然教室の思い出』と書き出してある。

 よーく思い出してなんか書いちゃいけないのだ。よーく思い出して、真人君が土って全部みみずのうんこなんだぜって云いながら土で汚れた手で古田さんを触ろうと追っかけまわしたことや、頂上で広げた中川さんの弁当箱にポケモンのリザードンの絵がついていて、小六にもなってダサいなあと思ったことなんかは書いちゃいけない。

 僕は、自然教室という名の登山について、どんな作文を書こうか考えていた。思い出したことを、ばらばらのまま書き連ねても、作文になんかならない。登山についての、まとまった、ひとつの物語を書きあげないといけないのだ。



 山登り 上田良男 



 ○月×日、僕はついに、妙高山の頂上にたどり着いた。僕は、天国を見つけた人のように、疲れも忘れ、山の上のおいしい空気を吸い込んで、友達の土屋君と「ついに着いたぞ!」と叫んだ。

 ここまでの道のりは長かった。

 僕達は朝四時に起きた。僕はこんなに早起きをしたことがないし、山だから朝は普段よりずっと寒かったので、とてもつらかった。山はとても急で、アスレチックのように手足を使って、岩や木の根をつたってよじ登った。僕は登山と言うとピクニックのようなものしかしたことがなかったので、こんなに大変だとは思っていなかった。

 途中に黄金清水という涌き水があり、からからののどにとても冷たい水が流れ込んで気持ちが良かった。自然の水は、学校や家の水道水とは違って、おいしいと思った。でも、まだニ時間しか登っていないのにとてもつかれていたので、最後まで登りきれるかとても不安になった。

 一番つらかったのが、岩のようながけだ。足の幅二つ分しかない足場で、手を鎖から離したら落ちてしまうと思ってぞっとした。死ぬかもしれないと思って本当に怖かったし、早く登りきってしまいたいと思った。

 登りの半分を過ぎた頃から、早く頂上につかないかなと思ったり、もうつらいので帰りたいと思ったりした。けれど、ここでひき返したら悔しい気持ちが残るし、あとで絶対後悔するので、最後まで頑張ろうと思った。

 そして十二時頃、やっと頂上についた。頂上の黒沢池はとても綺麗で、どこかの外国の絵はがきのようだった。とてもうっとりした気持ちになった。

 池を見ながら、「僕は今頂上にいるんだ。登りきったんだ」という気持ちがむくむくとわいてきて、とても満足した気持ちになった。ここまでたどりつくのはつらかったけれど、この気持ちを味わうために登ったんだなあ、と思った。これが先生の言っていた「達成感」だと思った。

 妙高山に登って、頑張ればこんなにやりとげたあとに気持ち良くなれるんだと分かった。つらかったけれど、僕はこんな高い山に登れるんだ、と思って自信がついた。妙高山に登って、いい経験が出来て良かった。



 正直僕は、今回の、自然教室という名の登山にはウンザリした。小学生に二千メートル級の山を登らせるなんて何を考えているんだ。早く児童の中から死者が出て、教育委員会にかけられて、自然教室の指揮をとっている年中赤ジャージの上下を着ているウザい体育の中堀先生がクビになって、自然教室が廃止されればいい。

 都内から新潟県の奥深くの小屋に連行された僕達は、母親がおばさんネットワークで仕入れてきた登山の恐ろしい噂と、単純に明日の朝の早さにおののき、枕投げと告白大会もそうそうに床についたが興奮と恐怖で眠れなかった。そして全ての部屋に響き渡る館内放送を通してなぜか流れ出した威勢のいいロックンロールによって、全員同時に朝四時きっかりに覚醒させられた。五時には登山。睡眠不足の頭と身体への容赦は全くない。ふらふらしていたら、何重にも葉が重った、底の見えない山の闇が、ぱっくり口を開けて待っているのだ。よくも今まで死者が出なかったなあと呆れた。五年生の頃は、上級生の中で死者が出て僕等の代から登山がなくなればいいのに、と本気で願ったものだけれど。

 頂上には黒沢池という池があった。池は神秘的な光をたたえ、水面の色はまるでラメカードのように、光の加減によって紫から水色の間を自由に動いた。僕は心を奪われた。

 そしてまた下りがひどかった。急な斜面を下りたから靴の中で足が前に滑ってつま先をひどく痛めた。本当、うんざりだった。

 これが僕の自然教室の思い出だ。まとめると、うんざり、きれい、うんざり。

 しかし、こんなんじゃ作文にはならない。よーく思い出して、ばらばらのまま、思ったことを書き連ねても、作文にはならない。

 頂上には何も無い。だって、頂上というのは山の一番高いところを指すだけの言葉なんだから。

 でも、何も無いはずの頂上を目指す「山登り」という名の物語をつくらないといけない。だから、頂上に、「達成感」という先生が喜ぶ魔法の言葉を貼り付けてやればいいのさ。

 さっさと書き終えて二時間目のほとんどを残した僕は、いずれ宿題になるだろう漢字ドリルを先にすすめる。ドリルを見つめながら、横目で、隣のあきら君をこっそり見下ろす。背中を丸め、鉛筆のお尻をがりがり噛みながら、原稿用紙に鼻がくっつきそうなくらい、顔を近づけている。一枚目の半分も埋まっていない原稿用紙の余白が、3D画像のように飛び出して見える。きっとその余白の威圧感、あきら君も感じている。よかった、作文が書ける子に生まれて。

 ある意味僕は今、頂上にいる。この前書いたへレンケラーの伝記の読書感想文が都の作文コンクールで金賞に選ばれ(偉人の伝記の感想文はおすすめだよ。感動した、すごいなあ、僕には出来ないなあ、と書いてればいいんだから。そしてシメは、「僕もこの人を見習って立派な人間になりたい」。)学校中の話題の人になってしまったのだ。まさに有頂天。

 頂上には何も無い。でも、頂上からは、周りを見下ろすことが出来る。次の日の国語の時間、もちろん僕も含め、何人かの優秀な作文がプリントされ、配られた。どう読んでも僕の作文が一番だった。他の作文はバスに乗るところからだらだら書いて「楽しかったです。」で終わっている幼稚なものだ。時系列くずしの上級技を使っているのも僕だけ。

 僕は、それとなく自分に向かう周りの子の視線を感じ、にやけているのがばれないように口元をむずむずさせる。

 隠しているけど、僕は嫌な子供なのだ。

 その日は一日中いい気分で、きっと区の文集にも載るんだろうと思って、口元をむずむずさせた。

 のだけれど。

 

「良男君、終わったらちょっと職員室に来てね」

 帰りの会で先生が言った。僕はすぐさま感づいた。周りの子もすぐに分かったようだ。僕は作文コンクールで金賞をもらった優等生で、職員室で説教されるような悪ガキではない。

 口元をむずむずさせながら職員室に向かうと案の定先生の机には原稿用紙が用意されていた。

「良男君の作文は今回もすごくいい感じだったから、区の文集の候補にしようと思うの。で、いつも通り、文集の規定に合わせてもうちょっと長めに書きなおして欲しいのよ。原稿用紙三枚から四枚の間にね」

 クラスで三人ほどの作文が区の文集の候補に選ばれ、更に六年生の四クラス十二人の作文を突き合わせて学年の先生が半分に絞り、それが文集に載る。前回の文集に載ったら候補には選ばれない。僕は一年生以来、二回に一回採用されていた。いつも通りとは、そういうことだ。文集の手続きなら、新任の伊藤先生より知っている。

「いつまでに?」

「できたら今月いっぱいに。大丈夫?」

「うん。平気だよ」

 先生はこの前書き上げた僕の作文と白い原稿用紙を渡した。

「原稿用紙は一応いっぱいあげておくから、じゃんじゃん使ってね。それと」

 先生はちらっと学年主任の中堀先生の机の方を見た。

「PTAの出してる会報があるじゃない? 『みどり』っていう。あれに、良男君の作文を載せたいんだけど、いいよね?」

「うん」

 なんでそんなこときくのだろう。いいにきまってる。

「じゃあ、たのんだからね。良男君の作文はすごくいいから、良男君が書いた通りに出すから」

「本当?」

「ええ、手直しなんかしないわよ。信用してるんだから」

 僕の胸はじんわりと熱くなった。

 先生達はしばしば、文集用の子供の作文を手直しするのだ。僕も、最近はあまり無いけれど、低学年のころはされた。むかついた。

「がんばってね」

「はい。がんばります」

 僕は職員室から退出した。胸のじんわりをとどめたまま、口元をむずむずさせながら帰るはずだった。職員室の中で、中堀先生の、すり鉢でごりごり潰したような声が僕の名を発しなければ。

「いやー。伊藤先生。上田君の作文は素晴らしいね。あんな児童のうけもちだなんて、僕は羨ましいよ」

「…ありがとうございます」

 伊藤先生の返事。さっきと違って、よそいきの声だ。僕は廊下で立ち止まった。

「PTAでも、うちの登山教育は厳しすぎるだの危険過ぎるだのいろいろ批判されたけど、ああいう感想もってくれる子がいると、いやー教師冥利に尽きるねー。心の教育としての登山教育のねらいを子供は分かってくれてるんだねー。苦労して登山教育を進めた甲斐があったってもんだ」

「そうですね」

 馬鹿でかい中堀先生の声で、伊藤先生の返事は隠れてしまいそうだ。

「やっぱり、つらいんだよあの登山は。でも、いくら苦しくても耐えぬく根性! 耐えぬいた後の達成感! 苦しい経験を通して得た自信! 子供はいろいろ学ぶことができるんだよあの登山で。最近はちょっと風邪ひいただけでも体育の見学届出してくるような親御さんが多いけど、まったく分かってないんだよそこんところ。ちょっとくらい苦しい経験をさせないと育たないよ、子供は。」

 ぺらと紙をめくる音がする。

「いやー。いいね、この作文。とくにラスト。『妙高山に登って、頑張ればこんなにやりとげたあとに気持ち良くなれるんだと分かった。つらかったけれど、僕はこんな高い山に登れるんだ、と思って自信がついた。』これこそ僕の、いわせたかったことなんだよねー。もちろんどの子供も感じることなんだろうけど、感じたことをちゃんと書ける表現力を持った子供って少ない。上田君はそれを持ってる貴重な子なんだよ。だから『みどり』に使って、登山教育の重要性を説く一環として、親御さんたちに訴える材料にならないかなー。と思ってるんだよねー」

 登山教育の重要性をトくイッカン! 僕の作文が、登山の寿命をのばすのに使われる。僕の心が震えた。

「あ、あと、伊藤先生」

「何でしょう」

「この、鎖場で死ぬかと思ってなんとかっていう部分は、やっぱりちょっとまずいよねー。ここだけ削ってくれる」

 言葉は優しいけれど、中堀先生の有無をいわさぬ怖さが、職員室の壁を越えて伝わってきた。

「…でも、良男君に手直しはしないっていっちゃいました」

「それは僕も聞いたよ。しかし、PTAにつけこまれることをわざわざ書く必要はないよ」

 大分間があって、

「良男君が良いと言えば」

「関係無いよ。こんなところで子供の意見通す必要は無い。死ぬかと思ったなんていう文章が、学校の外にでていいわけないだろう。頼むよ」

 中堀先生の足音がこちらに向かってきたので、僕は反射的に廊下を走り去った。

 わけもわからず煮え繰り返った腹を抱えて廊下を走った。放課後だから、すかすかの廊下を走っても誰にも注意されないし誰にもぶつからなかった。登山教育の重要性をトくイッカン! 頭の中で、中堀先生の言葉がぐるぐる回る。登山教育の重要性をトくイッカン! 僕の作文が、その材料になる。大っ嫌いな登山の寿命を延ばす、材料に。

 気づくと6の1、僕のクラスの前に戻っていた。誰もいないだろうから、席に座って気持ちを落ち着かせようと扉を開けると、驚いたことにあきら君が作文の時間と全く同じポーズで机を睨んでいた。目が合った。

「忘れ物?」

 あきら君が聞いた。

「う、うん」

 適当にとりつくろって、机の中を探すふりをする。腹が立っているのがばれないうちに教室を出てしまおうと思ったけれど、ふと気になる。

「…あきら君は、どうしたの?」

 こんな放課後に、一人で教室で座っているなんて。

「作文、書いてるんだ。この前の授業中に書けなかったから。今日中に出さないといけないんだ」

 確かに作文の時間と変わらず、あきら君の鼻のすぐ先には原稿用紙があった。相変わらず、原稿用紙は余白の方が広かった。

「僕、作文苦手だからいっつもこうなっちゃうんだよね。ねえ、良男君、ちょっと手伝ってくれない。良男君、作文うまいからさあ」

 あきら君が上目遣いでいう。僕は、まだ、見上げられている。もうあきら君のことなんか、見下ろしていないのに。

 僕の中で何かがはじけた。

「こんなことくらい、誰だって出来るよ」

 口を動かさずにはいられなかった。

「大したことじゃないさ。とりあえず、埋めればいいんだから。嘘でもなんでも、先生が喜ぶように適当に書いちゃえばいいんだよ」

 にえくりかえった腹の中をぶちまけるのを、止めることができなかった。

 あきら君は、困ったような顔をしていた。やがて、僕があきら君に対してすごく申し訳無くなるくらい気持ちが冷めた頃、泣き言を言うような口ぶりでこう言った。

「…適当に書いちゃおうと思うんだけど、できないんだ。何であんな山に登ったんだろう、疲れただけなのに。僕は良男君みたいに達成感なんてわかんなかったし、頂上についても、くたくたで嬉しくなんかなかったし。一体なんのために登ったんだろう…って考えると、何も書けなくなっちゃうんだ」

 僕はどきっとした。いたいところを突かれた気がした。

 一体何のために登ったんだろう。

 それは、山登りの間中僕がずっと考えていたことだった。

 ただしあきら君は、山を降りても、適当に書けばすまされる原稿用紙を前にしても、考えるのをやめなかったのだ。

「…僕も、なんで登ったかなんて、分からないよ」

「え? でも、作文には…」

「確かに達成感を味わうためって書いたけど。僕も山登りなんか疲れるだけだと思ってるよ」

 あきら君はものすごく不安そうな顔をしていた。アニメで、大好きなヒーローが絶体絶命になっている場面を見ているみたいだ。でもまだ、すがるような色を眼の端に浮かばせていた。ヒーローは逆転してくれると期待しているかのような。

 ぼくはヒーローではない。だから逆転もしない。

 とりつくろうようにあきら君がいった。

「僕、良男君はちゃんと考えてて偉いなあ、って思ったんだ」

「ちゃんと考えてるのは、あきら君の方だよ。僕みたいに嘘書いてさっさと提出しないで、余白をもてあましててこずってるあきら君の方が、よっぽど偉いよ」

 あきら君は、テレビの中で最強のヒーローが死んでしまった時のような顔をしていた。でもまさか。実は死んでないだろう。僕はとどめをさした。

「僕は作文なんか得意じゃない」

「そんなこと…」

「僕が得意なのは、嘘だ」

 頂上には、何も無い。



 僕は頂上を降りることにした。文集も金賞もどうでもよかった。

 しかし、降りる前に、最後にひと仕事するのだ。最後の嘘を。

「あきら君、書いてあげるよ」

「え?」

「作文。書くよ」

「本当?」

 あきら君の目がすばやく輝いた。よっぽど余白が怖かったのだろうか。しかし僕があきら君の机から原稿用紙をひったくったら、とたんに怯え始めた。

「ばれるよ良男君が書いたら…。字が違うし」

「僕が書いたのを、あきら君がうつせばいい。ほらここに原稿用紙はたくさんあるから」

 僕はばさっと、先生からもらった原稿用紙を置いた。十枚はあった。

「でも、上手過ぎてばれちゃうよ」

「大丈夫。ちゃんとそれっぽく書くから」

「でも、やっぱ、よくないよ」

「よくなくないよ」

「僕、ちょっと手伝ってもらえるだけでよかったんだよ…僕のフリしてなんて…」

 あきら君が僕の手から原稿用紙を取り戻そうとする。その腕をつかんでこう言った。

「どうせ作文なんて嘘だよ。嘘を二重についたって変わらないよ」

 あきら君はやっと黙った。

 親切心ではない。あきら君が、放課後に居残りさせられているなんて我慢ならなかったのだ。



自然教室の思い出  下田あきら



 ○月×日、僕達六年生は自然教室で新潟に行きました。僕はバスで酔わないか、みんなと一緒に眠れるか、寝坊しないか、山登りでばててしまわないかなどがとても不安で、前の日からよく眠れませんでした。でも、みんなでビデオを見たりトランプをしたりしていたので酔わなくてよかったです。

 妙高山に登る日、僕達は朝四時に起きました。朝四時に放送でロックが流れたので、うるさくて起きてしまいました。僕は朝四時に起きられるかとても心配だったけれど、寝坊しなくてよかったです。

 5時ごろ登山口につきました。温泉街には…



 不安そうなあきら君の目の色が、まもなく驚きの色に変わるのを背中で感じながら、僕は二十分ほどで書き上げた。

「ちゃんと本気出さないで書いたから、ばれないよ」

「良男君…。すごい…」

「適当だからさ」

「適当でも、こんな早く書けるなんて…」

 あきら君はまだ信じられないのか、生まれてはじめて紙を見る人みたいに、うやうやしく原稿用紙を眺めている。

 もちろん適当ではなかった。平凡な書き出し、楽しかったですと疲れましたのオンパレード、同じ語尾の連続。ださい作文の要素はふんだんに盛り込んだつもりだった。低学年の頃、文集用の原稿をしつこく手直しされた時の経験が役に立ったのだ。

「これなら絶対僕が書いたなんてばれない。もちろん、あきら君っぽく適当に手直ししていいけどね」

「ううん。ばれないならいいんだ。ありがとう」

 あきら君は早口で言い、速攻で満面の笑みを浮かべた。さっきはあんなに嘘の作文を書くことに怯えていたのに、ゲンキンなやつめ。

 かっこつけるわけではないけれどさっさと「じゃあね」といって別れた。でももしかしたら僕はヒーローに見えていたのかもしれない。頭を抱えていた宿題を、二十分で片付けてあげて、すぐさま去ったのだから。

 さっさと別れたのは、自分の作文を書くためだった。あきら君が出してくれたヒントを忘れないうちに。

 家に着くなり机に向かった。



山登り降り 上田良男



 ○月×日、僕はついに、妙高山のふもとにたどり着いた。僕は地獄から帰ってきた人のようにぜいぜいいいながら、地上の濃い空気を吸い込んで、「やっとついたぞ…」とつぶやいた。

 ここまでの道のりは長かった。

 僕達は朝四時に起きた。山はとても急で、アスレチックのように手足を使って、岩や木の根をつたってよじ登った。僕はこんなに早起きしてこんなにきつい山登りをしたことが無かった。すいみん不足の頭が激しい運動でぐらぐらして、どうしてこんなこと、どうしてこんなこと、ぐるぐる、同じグチを繰り返した。

 一番つらかったのが、岩のようながけだ。手を鎖から離したら落ちてしまうと思うとぞっとした。死ぬかもしれないと思って本当に怖かったけれど、今も地獄だけれど落ちたらもっと地獄だ。恐怖と睡眠不足と疲れでぼうっとなる頭を引き締めてなんとか登りきった。今までここで死んだ人がいないのが信じられなかった。学校側がかくしてるんじゃないかと思った。

 十二時頃、やっと頂上についた。頂上の黒沢池はとても綺麗で、どこかの外国の絵はがきのようだった。とてもうっとりした気持ちになった。

 降りる時がまた大変で、急な斜面で靴の中の足が滑り、足の親指をひどく痛めてしまった。うんざりした。山は登るものだと思った。

 僕は登り始めたときから、何のために登っているのか分からなくなっていた。身体もきついけれど、その答えがみつからなくてこころがきつかった。本当、心身ともに疲れた。

 山を降りた今でも、その答えは分からない。僕は達成感という言葉を知っているけれど、達成感のために登ったのだとは思わない。疲れた気持ちはどこにいったのか。疲れた気持ちのほうがずっと大きくて長かったのに、それはほんの短いいい気持のために、なかったことになってしまうのか。

 僕は違うと思う。疲れた気持ちと、池を見たときのいい気持ち。どちらかが重要で、どちらかがどちらかのためにある、というわけではないと思う。どちらも僕が感じたこと、同じ偉さだ。満足感が疲れをとりこんでひとつにしてしまうものを、達成感と言う。

 とにかくすごく心に残ったのは、もう登山はうんざりということだ。山を登ったのは何の意味があったのか。僕は全く分からないからこそ、達成感なんて言葉でひとつにくくらずに、全ての思ったことを覚えていたいと思う。



 書きながら、あきら君のことが浮かんだ。あきら君が原稿用紙の前で頭を抱える代わりに、僕が書かないといけない。

 怒りと決意が僕を急き立てて、三十分ほどで作文が完成した。

 次の日。

「…これは本当の作文なの?」

 昨日と同じく、あきら君は生まれて初めて紙を見る人のような手つきで新しい作文を手に取った。

「そうだよ。僕のはじめての」

 僕は実は、死ぬほど緊張していた。だって本当の作文だから。嘘の作文を先生にけなされるよりも(そんなこともうしばらくなかったけれど)あきら君にこれをけなされるほうがこわい。

 読み終わり、おどおどと上目使いのまま視線を上げたあきら君は、

「やっぱ、良男君はすごいよ。作文、うまいよ。僕が言えなかったことを代わりに言ってくれたかんじ」

 僕はほっとして、へなへなと体の力が抜けてしまった。

 僕は、中堀先生の言葉を思い出した。『もちろんどの子供も感じることなんだろうけど、感じたことをちゃんと書ける表現力を持った子供って少ない。上田君はそれを持ってる貴重な子だよ。』僕は心の中でにやりとした。その力を中堀先生の思いもよらぬ方向に使ってしまった、ということ。

 隠しているけど、僕は嫌な子供なのだ。

「ねえ、昨日の、ばれなかった?」

 にやりとしそうなのをごまかすように言ってみる。

「あー、大丈夫だったよ。でもね、」

 あきら君が茶目っ気たっぷりに笑う。

「『あきら君、漢字が全然間違ってないじゃない。珍しいね。』っていわれちゃった」

「あ」

 そうだ。適当に、原稿用紙の使い方や漢字を間違えろ、といっておくのを忘れていた。でもそこまであきら君はできない子じゃないと思ってたんだ。いろんな意味で。

 二人して笑った。昨日の今ごろは横目で見下ろしていた隣の子と、こんなに近づけるとは思っていなかった。

 よかった、作文が書ける子に生まれて。

 昼休みにイトウ先生を訪ねて職員室に行った。中堀先生は不在だった。伊藤先生は、僕の作文を目を丸くしながら読んだ。僕は、やっぱり、死ぬほど緊張していたけれど、それがばれないようにずっと口を結び、スチールのデスクのへりをにらんでいた。

 伊藤先生が顔を上げた。

「なおさないって、いったよね」

 無駄に語気を強くして先制攻撃したら、

「なおさないよ。だって、先生も、こっちの方が好きだもん」

「え?!」

「だって、こっちの方がすごく生き生きしてるよ。本当に書きたいこと書いてるな、本当の良男君の言葉なんだなって感じ、するよ」

 確かに、今の作文の方が勢いがあってリズムもよい、と僕も思っていたけれど。でも、そこまで僕の気持ちって作文に筒抜けなんだろうか。へなへなと、虚勢が崩れてしまった。

「多分、というか、絶対、文集は無理だけれど、ほら、学校行事の意味を否定しちゃってるからね、でも、先生は、良男君が自分の頭で考えてここまで書いたってこと、嬉しい」

「でも、『みどり』は? 中堀先生、怒るよ?」

 つい口に出してしまった。伊藤先生は一瞬不意を突かれた顔をしていたけれど、すぐに全てを理解し「ああ。中堀先生、声大きいもんね。」とうなづいた。大人は理解が速い。

「小学生にも著作権はあるの。先生が、良男君の許可が無いので良男君の作文は『みどり』には載せられません、て、きちっと言ってあげる」

「ありがとう」

 僕は大人ではないけれど、あの中堀先生に、新任の伊藤先生が立ち向かってくれることが、すごいってことは、分かってるつもりだ。僕はまた、胸がじんわりした。

 次の月の作文選考会では、伊藤先生は約束通り僕の作文を提出したらしい。驚いたことに、僕の作文は好評だったようだ。火がついたように怒り狂う中堀先生を除いては。中堀先生は、「賢い子ですね」と、コメントした白髪紳士の学年副主任、平野先生に対して、「ふん。上田君というのは随分ひねくれてますね!」と捨て台詞を吐いたそうだ。この話は伊藤先生からの伝聞だけれど、その後僕に向けられるようになった、三人のクラス担任のいとおしい眼差しと、中堀先生の敵対的な視線から、きっと本当なんだろうと推測できた。

 文集はもちろんだめだったけれど、僕にとってはもうどうでもいいことだった。

2007年 / 9,968字(31枚)

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