ロシアンガンジャ 3
滑走路

 最近ロシアンガンジャのライヴでよく見かける、カメラを下げた女の子。知らない子だし、私の周りのどの子もあの子を知らない。でも、前列で盛り上がる男の子達の間に割り入って、いつの間に一番前に陣取って、黙々とファインダーを覗き続ける彼女の姿を、新宿cautionに入り浸る客やバンドマンで見たことない者はいない。

 背は小さくてずんぐりとした体型、おそらく大学生で、とれかけのパーマが残る、乾いたわかめのようなばさばさの黒髪に、赤ずきんちゃんみたいなイメージの、アップリケのついたエプロンスカートやら、森の動物や雪柄の編み込まれたカーディガンを着ている。ヒラメみたいに両目の間があいていてぱっくりとひとえ、そんな海の者か山の者か分からない、そして、ものすごく高くて重そうなカメラを下げている。

 と言ったら、ああートリコね、と、リサはゴミの臭いでもかいだような顔をして言った。最近この界隈のバンドをよく撮ってるんだよ。目障りだよねー。

 私はライヴハウスの人かバンドのスタッフかと思っていたけれど、そうではないらしい。それなら玲奈も知ってるし、あんな割り込み方して撮らないでしょ。カメラガールっていうかさ、あのー私写真やってるんですけど撮ってもいいですかー? ってバンドマンに近づいて、写真よかったらメールで送るんでウェブとかフライヤーに使ってくださいーとか言って取り入る子だよ。

 「トリコ」というのはあだ名、というか、誰がつけたでもない公然の蔑称らしい。あートリコね知ってる知ってる、私も何度横入りされたことか、カメラ構えると夢中になっちゃっててさ他人の迷惑考えらんないみたいね、俺ドリンク待ちの時も割り込まれたことあるけど、えーじゃあいつでもだめなんじゃん、ハハハ、……てか言っちゃ悪いけどちょっと気味悪いよね、写真撮ってる時の顔見たことある? ニヤーっとしててさ、正直、ぞっとしたよ、……と周りの友人や顔見知りのスタッフやらも皆一言申したい様子でいつの間にか群がってきて、口々に言い散らし始める。バンドマンも拒否すればいいのにねー、いやいやみんな優しいし、大事なお客さんだから邪険に出来ないんじゃないの。まああの子気づけばいっつもいるもんね、ある意味上客じゃない、それになんだかんだ言って写真巧くてタダで撮ってくれるなら利用出来るじゃん、いや、それが、ド下手なんだって、えーじゃあ何もいいとこ無いってことか、やっぱ、ああいう子ってスタッフパス狙いなのかなー? でもそんな腕じゃさすがにムリでしょ、じゃあ、バンドマン狙い? いやあの顔じゃさすがにムリっしょ。ハハハ。

 トリコはいつも単独行動をとっているようだった。インディーズの、しかもこんな端っこのジャンルのロックを聴きに来る客なんて偏っているから、何度も通えば客同士顔馴染みが出来て、誰と約束するでもなくライヴにやって来てもなんとなく知り合いに出会うようになるものだけれど。トリコは何ヶ月経ってもその輪には染まず、いつも一人で来て、一人で撮って、フロアにたむろすバンドマンにどもりながら一生懸命話しかけ、家出娘のような大きなカバンから名刺や写真の入った大きなファイルをとりだして広げ、通り道を塞いで邪魔がられていた。

 ある日のライヴ、その日は黄金デルタやクスリックスなど、薬物関連の名前のバンドを集めた特別騒がしいブッキングの日で、トリのロシアンガンジャのラストの曲も大いに盛り上がっていたんだけど、最前列にいたトリコがカメラを覗いたまま二、三歩後ずさったはずみに後ろの男の子にぶつかって、彼の持っているドリンクが盛大にトリコにかかってしまった。トリコはその日運悪く、白クマの子供みたいなもこもこの白コートを着ていて、みるみるうちにその毛に黄色が染み渡っていくのがフロアの暗い照明の中でもはっきり分かった。トリコはしばらくあんぐりと口を開けたままぼおっとしていて、男の子もさっきからのトリコのふるまいに苛ついていたのか大して謝りもせず、まあ、すぐ真横で見ていた私も男の子は全く悪くないと思ったんだけど、トリコはどうするんだろう、と気になって見ていると、かまわずすぐカメラを持ち上げて撮りだした。今度は私があんぐり口を開けていると、その時唐突に曲は終わり、トリコと目が合った。私は、見つかってしまった、という顔をしていたと思う。彼女の視線は、私の携帯電話に注がれていた。私がライヴ中ずっと握りしめて、ステージ横目に熱心に打ち続けていた……、そこでなんだか、彼女と私の間に、何とも言えない連帯というか、共犯というか、が生まれたんだと思う。迷惑なのは、いい勝負ね、というか。

 私は急に生まれたそんな気持ちに妙に慌てて、わざと大きな声で、あー染みになっちゃうよ真っ白なコートなのに災難だったねと言ってカバンからウェットティッシュを取り出した。汚れたところを二人してとんとん叩いていると、馬鹿だなーニンフ、ライヴに白いコート着てくなんて! と言って皇帝が現れて、楽屋の洗剤やらタオルやらを持ってきてくれて、そしたらトリコ、あの、皇帝さんとお知りあいなんですか?! って、いきなり上ずった声出すから驚いちゃった。あの、私、写真やってて、いろんなバンドさんの写真とか撮ってて、で、あの、よかったら今日の写真もメールで送るんで、あ、あとこれ、私の連絡先とブログです、って、クマさんの絵のついた名刺を私と皇帝に突き出した。あーあ、これが噂の、って感じ。皇帝は、良い写真があったら使わせてもらうよ、ときっちりと言った。あの、よかったらニンフ、さん? にも送らせて下さい、今日のお礼、というかお礼でもないですけど、なんというか記念に。あー私はスタッフでも何でもないけど、それでもいいなら、送ってくれれば見るよ、と言ってメールアドレスを教えた。リサには物好きだねえ、なんて言われそうだけど、でも、なんというか、私はまだ、みんなの言う通りに彼女を嫌いになるには満たなかったし、それは写真を見てからでも遅くないと思ったんだ。

 でも送られてきた写真はさ、あちゃーって感じだった。多分彼女は動いているものを枠の中に収めるので精一杯で。何が写ってるかはようく分かるけどさ、これは思い出を呼び起こすくらいの価値しか無いね、って、皇帝と苦笑し合った。

 トリコと再会したのは意外とすぐ、その一週間後くらいだった。cautionへと続く雑居ビルの階段で、北欧のおばあさんが暖炉のそばでたたずんでいる時にかけている毛布みたいな複雑な柄の背中が、見覚えのあるずんぐりとしたカーブを描いていたのが見えたのだ。その日私はcautionに行く用は無くて、その近くにあるCD屋まで行くつもりだったのだけれど、どうにも気になって声をかけてしまった、……ということは、やっぱり私は彼女に憎めない気持ちを持っていたんだと思う。どうしたの、中入らないの、って声を掛けたら、彼女はびくっと身体を強ばらせたあと、軽く会釈して、皇帝さん、やっぱり写真使ってくれないですね…………って呟いた。まあそうだね、皇帝は変な媚びを売らない人だからね。私はなるたけ残酷に聞こえるように言った。そしたらトリコ、私……なんか、何してるんだろうって思って……みんな私の写真使ってくれないし……それどころか、あんな風に言われて……と言ったと思ったら大きな両手でがしっと掴むように顔を覆うと、豚みたいに鼻を鳴らして盛大に泣き始めた。唐突だなあ。まあ、大方陰でトリコって呼ばれてるのを聞いちゃった、とか、そんなことだろうか。

 変な時に声かけちゃったなあ、と、自分のタイミングの悪さを呪いながら、ほら、こんなところで泣いてるのもあれだし、おごるから喫茶店でも行こう、話聞くから、と言ってトリコの手を引っ張って連れ出した。

 cautionの真上の階はファミレスになっている。自分もトリコくらいの時、開演時にここに陣取って、音楽のことバンドのこと、お喋りに興じたなあ。そんな仲間もいないご様子のトリコにうっかり優しくしちゃったお姉さん、しかも皇帝とも知り合い、となると、これはなつかれちゃうかもなあ、なんて状況分析しながら見つめていると、トリコはしばらく鼻をすすり続けたあと、「あんな女に撮られたくない」って言われてたの聞いちゃって……、とこぼした。どうやらトリコのブログに、写真とともに無邪気に書いてあった「Vo.の誰々君が今日は夢に出てきていい気分です♪」とか、「今日はMCで熱があるって言ってたけど、大丈夫かな〜」なんていう言葉を見た当のVo.の誰々君が、そう言っていたらしい。あー入り口でそれ聞いたら、確かに入れなくなるね。私は、なるべくそっけなく聞こえるようにそう返しながら、目の前のこの子は一部の人が言うように、写真をエサにバンドマンとお近づきになろう、とか、スタッフを気取りたい、とかそういう明確な魂胆があるんじゃなくて、ただもう本当に周りが見えない、本気で不器用な子なんだ、と、瞬速で理解した。だって、そんなこと書いたら他の女の子の客にも当人にもどう思われるか、少しは考えなかったのだろうか。テレビの中のアイドルじゃなくて、顔の見える狭い世界なんだから、気をつけないといけない。

 トリコはひとしきり泣いたらお腹が空いたのか、ミルフィーユカツを注文した。あーあ、そういうところが不器用だよなあ。別に私ももう学生じゃないし、ファミレスで何おごっても痛くはないけどさ。

 トリコは今大学三年生で、入学時に写真サークルに入って写真を始めたらしい。着々と口の中にカツを放り込みながら、エネルギーを得て元気が出たのか、気持ちに蹴りがついたのか、トリコは妙に回復して話し始めた。

 高一の時観たゼロ番煎じのライヴにすっごい衝撃受けて、でもすぐに解散しちゃったんです。それでそのあとクロビシンも観たけど、何か違うと思って……でも蛇介さんは私のヒーローだったし、一回しか観たことないゼロセンの思い出にすがるように、観に行ってたんです。クロビシンも解散した後は、流れ流れて、今はこのあたりのバンドがすごい好きです。中でもロシアンガンジャは本当、一番好きって言ってもいいくらい。今は皇帝が私のヒーローです。

 私、本当にバンドが好きで、すっごい好きで、もう、強烈に憧れているんです。ライヴハウスの雰囲気が大好きで、ハコに住みたいくらいなんです。あそこの空気だけ吸って生きていきたい、ってくらい。入り浸っていたいんです。だから、自分でもバンド組みたいとも思ったんですけど、でも、私、リコーダーもピアニカもクラスでビリってくらいに出来なくて。もう両手で違うことをするってだけで、しかも五本の指全部が、ってのが許せなくて、じゃあギターなんて出来るわけないじゃないですか。……でも、何かを表現している人にすっごい憧れてて、何か私も、表現してみたい、って思って、写真始めたんです。そしたらこの、大好きなライヴハウスの空気を、少しでも持ち帰って、自分の中に閉じ込めておけるんじゃないかって。

 あーよくある、眠くなるほどよくある話。それで、願わくば憧れのバンドマンとちょっとお近づきにもなりたいわ、表現者同士として、みたいな? 私がそう意地悪く聞いてみると、彼女はちょっとおし黙ってから、カツと一緒に口をもごもごさせて言った、当たり前じゃないですか、尊敬する音楽作ってる人に少しでも近づきたいって思うの。

 はあーこの子は知っているのだろうか。ライヴハウスにはこういうカメラを持った女の子がごろごろいて、顔ファンとかグルーピーとか、陰で言いたい放題言われていることを。あなたのことを最も悪く言ってる子達なんて、「お買い物」、つまり、トリコがまたおかずを調達しに来たね、って、言ってるんだよ。まあ、また泣かれても面倒なので、黙っていたけど。

 私はきゅっと真面目な顔になって、誰も彼女に言ってくれないことを言う役を買おうとしていた。物好きだなあ、と頭の片隅のもう一人の私が失笑しているのも、ようく聞こえていたけれど。

 ねえあんたの写真見て思ったのは、ああこの子は自分のことしか考えてないで撮ってるなってことだよ。さっきから何のために撮ってるって、あんたは自分のためにしか撮ってないじゃん、自分が表現したいとか、自分が憧れてるとか、自分が持ち帰りたいとか閉じ込めておきたい、とか。正直ファン心の表現、単なる記念撮影だよ。純粋に自分のためだけの。あんたは、他人をどうしたいの? 他人にどう思わせたいの? 皇帝は本気で音楽やってる人だから、そこんとこキリッキリに考えてるよ。つまり、他人からお金をもらう、ってことを。インディーズだけどバンドマンはみんなそうだよ、だから、あんたがハンパやってもバレちゃうよ。まあ、そのパッションは立派だと思うけどさ。

 そっかあ……、と、ドリンクバーのメロンソーダの入ったグラスの中に注ぎ込むように言ったトリコはしばらくそのまま俯いていた。彼女なりにショックを受けたのか、ずんぐりとしたトリコの身体はいつもの数分の一にしぼんで、小さなグラスの中に吸い込まれてしまいそうに見えた。やがて何かの合図のようにメロンソーダをずずうっとすすったトリコは、グラスを見つめたまま呟いた。私、甘かったかも。

 ま、それはそれでひとつのスタンスだよ。でもファンでいいなら、もっと大人しくちまちま端っこで撮ってな。じゃないと皇帝より先に客に怒られるよ、前列農奴はみんないい人だけどさ。

 そう言えばニンフさんは……、とトリコが言うので、あ、ニンフっていうのは皇帝が冗談で言ってるだけだから、玲奈でいいよ、ああ、玲奈さんは……やっぱ皇帝さん、の、彼女さんなんですよね? いいなあ、あんな才能のある人と付き合えて。

 彼女になって満足出来るなら、写真もその程度でいいんじゃない? 私が置いた紅茶のカップがソーサーの上でカチャッと派手な音を立てた。……ごめん、毒づいた。いや、今は彼女じゃないんだよ。なんだろうね……クレバーな友人? 昔付き合ってて、一回別れてまた付き合って、また別れたんだ。別に喧嘩別れじゃないんだけど……、と私はどこまで話す気なんだろう、会って二回目のこの子に、という頭の隅の呆れ声を聞きながらも止まらなかった。

 皇帝は、私といるとインスピレーションが湧くらしく、ものすごく曲が出来るんだけど、私は自分のことが出来なくなってしまうんだよね。楽しいんだけど、攪乱される、というか。私は趣味で小説を書いていて、今、出来たての雑誌の編集部で見習いバイトのようなことをやっているんだけど、そこに出入りしている人で、私のことなぜか気に入ってくれて、私のいいところをうまく引っ張り出してくれる人がいて……私はその人といる時の自分が大好きで、一番自信が持てて、誇らしかった。だって彼との受け答えでぽんぽんと面白いくらいに語彙が湧くし、彼のアドバイス一言で、原稿がめきめき良くなっていくんだもん。そうして気付いたら、皇帝といる時間より、彼といる時間が長くなっていた。最近、彼がすすめてくれた賞に応募したら、一次審査に通ったんだ。

 じゃあある意味、皇帝より小説をとったってことですか? うーん、解釈はいくらでもあるしそれも嘘ではないよ。でもどっちかって言うと、皇帝にとっても私にとっても、適切な距離におさまったってところかなあ……今一番、互いをいい具合に搾取し合えてるんだ。皇帝は相変わらず私と会話セッションしていろいろ思いついてるし、私は私で、ね。

 あ、そう言えば、あの時ケータイでメール打ってましたけど……ああ、それが、そう。皇帝のライヴ見てるといろいろ湧いて止まらないの、それを必死でメモってるんだ。へえー、取材ってことですか? ううん、全然、全然関係の無いことばかり浮かぶの。玲奈さんが書いてる小説ってどんなのなんですか? うーん、シュペルビエルって知ってる? 知らない。フランチェスカ・リア・ブロックは? 知らない。うーん、じゃあ梨木香歩は? いしいしんじは? あー、名前は聞いたことあるけど読んだことないです。そっか。私が書いてるのは、吟遊詩人やセロ弾きや、踊り子やとらわれのお姫様が出てくるような、どっかの国の宙に浮いたお話だよ。……じゃあバンド全然関係無いじゃないですか。そう、そうだけど……それが、浮かぶんだよ。不思議だけど……ね、切実だからかな、彼が。切実なモノを見ていると、自分も切実になって、自分からも切実なものが出てくるんだ。

 ねえ私は、切実だと思われたいよ、自分の文章を。純文学なんて今時売れない、しかもこんなポワポワした、人を食ったような話を書いて、わけが分からないと思われるのも仕方無い。気に入られないのも仕方無い。でも、切実だ、とは思わせたい。今、ここに今、この文章のすぐ裏に、書かないと死ぬってくらいの切実さで、切ったら血の出る切実さでもって、書いている人間がいるんだ、ってこと、体重の乗った実感として、ぶつけられてほしいんだ。…………切ったら血の出るお金をもらうんだからさ。ねえ、あんたは、どう思われたいの? 自分の芸術を、さ。

 トリコは血が出てきてしまいそうなほどきゅっと強く唇を噛んだ。自分の、芸術…………。自分の芸術、だなんて言うの、おこがましいです。今の玲奈さんの話とか、あと皇帝さんとの話を聞いたら尚更。そんな覚悟全然持ってないもん、私。そもそも自分は、バンドを素材にして別なものを作ってるわけじゃないし。…………ただ大好きなものを閉じ込めておきたい、って、それだけなんだもん。

 煮えきらないな。「素材」でしかないよ。音楽なんて瞬間芸術、バンドは生き物、ライヴはナマモノなんだから。その時限りなんだよ。無理だよ、閉じ込めておくなんて。だからこそ彼らは何度もライヴするしかなくて、私達も何度も通うしかないの。あんたは、無理なことをしようとしてるから、うまくいかないんだよ。出来上がった写真見てニヤニヤしてるようじゃザマ無いね。生かすんじゃなくて、殺す気でやりなよ。写真はナマモノじゃないでしょうよ。

 私が伝票を持って立ち上がるトリコもつられて腰を上げ、私達はさらりと別れた。

 一人になってから考えた。随分と喋り過ぎてしまったのは、何故なんだろうって。みんなが嫌うあの子に妙に世話を焼いてしまったのはどうしてなんだろうって。同じバンドを一番好きと聞いた時の連帯感、皇帝をヒーローだと言った時の共感と、少なからずの優越感、ううん、でも、やっぱり、あの時感じた、最前列での共犯めいた気持ちか。

 うらやましい、格好良い、でもちょっと、さみしいと思います。

 皇帝と私のことについて、トリコが別れ際につぶやいた言葉。そう、さみしくないわけないじゃないか、そうまでして、自分はなんで、書いているのだろうか。

 忘れてしまいたいから。自分の身体から最短で返ってきたレスポンスはそれだった。自分の中で生まれる様々な感情、どんどん溜まって身重になって、腹が苦しくて仕方無いから、産み落としてしまいたいんだ。これ以上同じ思いにかまけていたくないから。もやもやとしているままより、ちょっと違う形になってしまってもいいから、外に出して、すっきりと整頓した形を見て、終わらせてしまいたい。楽になりたい。

 …………皇帝といると、ものすごくいろんな色を見せてもらえたけれど、その作業が出来なくなっていた。彼はどんどん曲を書いていたけれど、私は彼を吸収するので精一杯で、立ち止まって落ち着いて、きれいに整頓する暇は無かった。

 そんなすっとんきょうな理由で書いている私は、だから早く書き終わらせたくてたまらない。そしてすぐまた次の作業にとりかかりたいんだ。私は自分の一部をひっぱりだして、ぐちゃぐちゃに噛みちぎって引き裂いて、満足したらぽいっと捨てて、次の獲物に食らいつく。永遠に忘れたくない、なんてのとは真逆で、そうやって暴かれ尽くした感情はむしろ早死にの憂き目に遭ってるんだ。出来上がったものに興味は薄くて、それは自分に言わせればゴミのようなもので、価値があるのはむしろその食らいつくという行為。

 しばらくトリコの姿を見なかったけれど、やはり私達は前列で再会した。ファインダーからロシアンガンジャを覗き続けるトリコの目は以前みたいに夢を映していなくて、獲物を狙う肉食獣のように、原始的な欲の色を映していた。私もいつになくがしがしとケータイに打ち込みながら、隣の殺気を妙に生々しく感じていたんだ。

 終演後のトリコは、あんなに優しくしてやった恩を忘れたみたいに、私に挨拶もせず一目散に帰っていった。野良猫みたいな奴だな、と思いながら、あまのじゃくな気持ちが芽生えた私は、帰宅後、ずっと放置していたクマの名刺に書いてあるブログにアクセスしてみた。



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no title 2011/12/21 02:11




生きたまま閉じ込めたいと思わずに、

諦めた時に良い写真が撮れるようになった。



彼らは一瞬一瞬死んでるんだ。

それで生まれ直しているんだ。

私が撮った瞬間にはもう死んでいるんだ。

私が撮っているのは、ただの死体だ。



そう思ったら、ステージの上の全てが、ゆっくりに見えた。





全 員 死 ん で る





生まれて死んで、また生まれる。

だからライヴって言うんだよ。



「デッドハウス」へようこそ。



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 今度はまたガラリと違った方向で痛々しいこと書いちゃってるなーと苦笑したけれど、そのテキストに続く写真の群れを見て私は息を呑んだ。不思議なことに、「死体」を撮ったはずのそれらの写真は全て、まるで、今にも動き出しそうだったんだ。

 悔しいことに、それから私はトリコのブログをちょくちょく覗くようになってしまった。

毎日のようにアップされる写真にはもう他愛の無いライヴの感想はつかず、ただライヴの日付と場所とバンドの名前だけが、無愛想に書きつけてある。私の知らないバンドがあると、ネットにアップされている音源をついチェックしてしまう。悔しいな、これじゃあすっかりトリコのファンじゃないか、バンドマンのブログも、雑誌のインタビューも読まない、音楽自体以外の全てのものに興味の薄かったはずのこの私が。

 トリコはもはや、ライヴハウスにやって来ても以前のようにバンドマンにまとわりついたりはしなかった。誰にも、私にも話しかけなかく、用が済むとさっさと帰った。相変わらず最前列には居座ったが、なぜか周りの子はトリコへの悪評を囁かなくなった。つまり、トリコの本当に憎まれていたことは前へ割り込むことではなかったんだ。みんなの心の中にあった、でもみっともないから我慢して隠していた欲求を、トリコがあまりに無邪気にあらわにしていたことに、むかついていたんだ。

 バンドマンを憧れの対象でなく、殺す獲物として見るしかなくなったトリコはもう誰の敵でもなかった。

 私の小説が、二次審査も通過した。

 久しぶりに話しかけてトリコにそのことを伝えると、あ、私彼氏出来ました! と、あまりに見事なカウンターを食らった。本当に不器用な子だなあ、こういう時はひとしきり私を褒めてから自分のことを話すんだよ、と思いながらも大人の礼儀でへえどんな人? バンドマン? 写真とか無いの? とひとしきりトリコを褒めそやしてあげると、トリコはふふふと笑って、彼は撮らないの、撮ると殺しちゃうからね、と言った。……変わったな、この子。不器用と不気味は変わらないけど。

 そういえば次のロシアンガンジャの自主企画来る? 重大発表があるらしいけど。私が話題を変えてそう聞くと、あ、ロシアンガンジャはもういいです、飽きちゃった。というか、撮りつくしちゃった。トリコはまたもやフフフと笑った。最近、写真を撮ってくれって言われてるバンドがいくつかあって、それを回るのに忙しいんです。そう言いながらトリコが指した胸元には誇らしげにスタッフパスシールが貼り付けてある。

 ありがとうございました、玲奈さんがきっかけでいろいろうまく回り始めた気がするんです、あ、小説すごいですね、次も通ったら教えてください! そう言ってトリコは華麗に楽屋へ消えた。ふん、玲奈さんがきっかけで、ねえ。私は占い師にでもなれば結構いいお金が稼げるかもしれない。

 独りでライヴハウスを出てから大きく溜息をついた。飽きちゃった、かあ。軽やかだなあ。私にはもう永遠に言えない台詞だろうな。ロシアンガンジャを殺し切ってしまった彼女を、胸の奥の変なところから、羨ましい、と思った。

 尖ったことを言っていた、そう、私がトリコと同じ年頃だった時を思い出す。「つまんなくなったらファンやめる」とか「私が要求するのは良い音楽を作ることだけ」とか、皇帝には胃の痛くなるようなことばかり言っていたが、それは自分に向けた刃でもあった。良い音楽「だけ」を希求するのは、とても純粋で、美しい態度だ。でももう私は、ただそれだけだなんて言えなくなってしまった。私は今、ロシアンガンジャという名の長編小説の序盤からちょっといったところを読んでいるような気分なんだ。凹んだり浮かんだり、いろいろなことがあるこのバンドを見続けていることが、そしてそのたび自分の中に浮かび上がってくる様々な感情に振り回されるのが、面白くて仕方無い。すっかり不純になってしまった。読みかけを放り捨てるなんてもう出来やしない。昔の私が見たら、今の私を軽蔑するだろう。

 こうなってしまった私が彼らに望むのは、だから、走り続けること。たゆまぬこと。駄作でもスランプでもいいから、ステージに立ち、物語を紡ぎ続けること。もう、私の心の琴線に触れるどころか奪い取ってあんたのベースに張り替えられてしまったのだから、あとは激しく鳴らし続けて欲しいんだ。

 だってそうしないと、皇帝は皇帝でいられない。皇帝が皇帝であり続けることが、私にとって一番大事なことなんだ。ほかの人にとっちゃどうでもいいことかもしれない、駄作の連続より寡作の名盤の方が、ずっと価値あることかもしれないけれど、私は、あの皇帝が好きなんだ、多作で馬車馬の音楽奴隷が。いつも音楽のことしか考えていない、音楽に溺れた音楽バカが。

 私は彼らの物語の最新情報を知っている。重大発表。インディーズ好きなら誰でも知っている、大物エンジニアの元でのCDリリース決定。今までライヴハウスやディスクオニオンだけでちまちまと売られていたロシアンガンジャの音源が、たとえ都内の数店舗だけけでも、ちゃんとした大きなレコード屋に並ぶと思うと、心臓がせり出しそうになってしまう。

 何度も訪れた彼らの、そして我々のホームでもある新宿cautionに、重大発表を聞きに顔馴染みが集ってくる。いつもスーツで現れるハンスのお姉さんが今日は私服だったからなんだか見慣れない。最近転職をして、残業の少ない事務職をしながら夜間の服飾の専門学校に通っているらしい。弟の服にミシンかけてたら、面白くなってきちゃって、もっとちゃんと勉強してみたいと思ったの、だって。私の小説が二次審査も通過したことを伝えたら、ものすごく褒めちぎってくれて、でも私も負けない、私も腕利きのパターンナーになってやる、と意気込んだ。

 蛇介さんはヘビニラミというソロプロジェクトが好評で、秋葉原campで定期的に企画を行っている。毎回バンドメンバーをとっかえひっかえして、全く違うコンセプトで演じる、というスタイルが定着している。一時よりずっと優しい目をしているような気がする。

 リサはアパレルに就職して、ティーン向けのショップが入っているファッションビルで販売員をしている。お客の女子高生になつかれて、お菓子をもらったり、メアドを交換したり、異動の時はお手紙をもらったりもしたらしい。何でもプロとしてつきつめてやると、極めることができるんだなあ、と思う。

 それから他にも、見渡せば知り合いが何人も。二年も通い続けているのだから当然だ。ただ単に、同じ音楽を好きで、勝手に集まって暴れているだけなのに、なんで私は、この場所が、この人達が、こんなに愛おしいんだろう。

 軍コートを翻しながら現れた皇帝に祝福の野次が無数に飛んだ。最前列農奴のバンドマン仲間がスミノフを握りしめた腕を皇帝に突き出す。皇帝は全ての腕から酒を受け取り、順番にあおっていく。

 マイクスタンドに食らいついて皇帝が叫んだ。

「農奴ども、そこは日本かー!」

「うおー!」

「知ってるか、ここはロシアだー!」

「うおー!」

「そしてさらに知っているか、国境なんて点線だー!」

「うお−!」

 そうして唐突に始まったのが新曲の嵐だった。音が飛ぶ、音が突き抜ける。いちいち鼓膜が新しく破ける気がする。二度と、はじめてこの曲を聞くことはできない。一瞬一瞬死んで、また生まれたてが耳に入ってくる。それが愛おしくて、たまらなくて、流れ出てしまわぬように目を閉じたらステージの強い照明が瞼の裏を焼いて眩しい。赤ん坊が産道から初めて覗く世界はこんな風に見えるんだろうか、なんて場違いなことが思い浮かんだ一瞬後に激しく暴れる農奴達にぶつかりよろめいて目を開ける、するとまるで初めて見るような新鮮さでもって、飽きるほど見つめ慣れたステージの光景が、白い眩しさと一緒に目に染み入ってくる。一回死んで、また生まれる。一瞬ごとに何度でも生まれ直す。ライヴハウス。無数の産場で無数の墓場だ。もう何も考えちゃいけない。本当の農奴になって、私も音楽に頭の中身を占領される。屈服して、身体をあずけ、農奴達のモッシュの波に溺れる。

 急ブレーキをかけたように音楽が止まって、皇帝が告げたんだ。

「ロシアンガンジャ、正式音源ついにリリース。エンジニアは元ショスタコービッチ、現スプートニクのギタリスト、悪沢ダイゴさん。半年後、都内のシャワーレコードで購入せよ!!」

 うおー! すげー! 悪沢だってよ! 遂にか!! みんなの怒号や拍手や歓声がマイクに拾われ、踏みっぱなしのエフェクターを通り四方から何倍にも返ってきて、頭の中で脳みそが揺れるようだった。おめでとう。おめでとう。自分が言ったかもしれない声が、どこかのスピーカーから何度も耳に戻る。この場にいる皆が、自分と同じことを思っている。一体感。同じものを一緒に読み進めている。汗だくになってぶつかり押し合って、隣の人間との境い目が無くなってしまいそうだ。この、気持ちよい感じ。このまま、いつまでもこうあればいいのに。

「もうひとつ、大事な布告がある」

 皇帝が機材を切ったので、音の亡霊が一気に消えて静かになった。

「ロシアンガンジャは、名前を変えます」

「え……」

 何それ、聞いてない。

「何に変えるかは未定ですが、変えた名前でCDを出すよ。俺もこれからは皇帝じゃなくて、メインで出す名は黒澤龍彦。命賭けるから本名出していきます!」

 どよめきが止まらなかった。他の誰も聞いていない話のようだった。

「こっちのハンスは、高橋悠理」

「やっと靴屋のハンス卒業だよー!」

 ハンスがおどけて手を振る。

「スパイの名は、上村譲」

「こんにちは、ステージの上で初めて喋ります。本名を知られたからにはスパイ失格だな」

 スパイが喋ったこと自体驚いたが、そんなことに驚いてる場合じゃなくて。なんでー?! なんでー?! というどよめきがフロアを埋め尽くしていた。そして私の心の中も。

「愛着のあるバンド名と称号を変えるのは心苦しい、けれど、もっと多くの人に我々の音楽をぶつけるため、本当に守りたいものを守るためには背を腹に変えることも辞さない所存」

 元はと言えばお遊びで組んだネタバンド……、名前でイロモノ扱いされて損……、昔皇帝が呟いていたことが脳裏に蘇る。

「農奴にも分かるように平たく言うと、要は、売れてーんだよーーー!!!」

 そう叫んだのが合図で始まったのがナポレオンだった。

 俺たちはいつでも来た道に火をつけて、思い出と逃げ道燃やしてきたのさ。焦土作戦どーしょーどーしょー、焦燥焦燥ハラショーハラショー。

 私が嫌いな歌だった。「後が無い」、「もういい年だ」、狭いステージは二歩後ずされば奈落で、しかし私はたとえそれでもステージの淵まで使って大暴れして欲しかったから。

 皇帝でいる限り、皇帝でいる限り、俺はステージに君臨する。革命起きたら失職さ、帝政コケたら穀潰し。

 合唱が起こっていた。曲が終わった途端、

「売れろー!」

 誰かが叫んだ。

「売れてー!」

「売れろー!」

「売れてやる!!」

「売れろー!」

 ぶしつけなコールアンドレスポンス。私も叫んだ。私のために名付いたバンド。私の姿が呼び起こした"皇帝"。でも、一度でも、目の前にあるこの男が、バンドが、私のものであったことがあっただろうか。売れろ。売れろ。みんなのバンドになれ。売れろ。売れて、勝手にどっか行け。

 狂い咲くように渦巻く歓声を切り落として最後の曲が叩きつけられる。"ロシア国歌"。待ち詫びた農奴が絶叫で迎える、真のキラーチューン。

 間違い無く、バンドは変わるだろう。名前だけでなく、名前に象徴されるいろいろなものが変わるだろう。それでも私は、走り続ける限り、意地でも追い続けてしまうだろう、そして、怖いんだ、一体誰がいつまで、ここで一緒に、追い続けてくれているんだろう。ふいに膝の力が抜けてしまって身体がねじれ、最前列から後ろへ向いて客を見渡す。そんなことしているのは私独りだけで、皆同じ方向を見ているのだ、私が一瞬前まで、そして一瞬後に見ている同じ場所を。同じ角度で、見上げている。

 今のこの、加速をつけて飛び立とうとしているものを皆で見上げる時の、一体感。このまま売れて、安定飛行に入ったら、きっと失われてしまう、そして売れなくしぼんで年をとっても、きっと無くなってしまうんだ。今が今。永遠じゃない。永遠に加速し続けてくれなんて、酷なことは言えない。でも、だから、とにかく、売れろ。振り返るな。減速するな。まっしぐらに売れろ。

「ロックバンドに出来ることなんて! ロックバンドに出来ることなんて!」

 気の遠くなるようなリフレインはいつもの倍どころじゃなく執拗に巡り続けて脳みそに染み込む、幸福のシャワー。音楽。音楽しかない。でも音楽ではない。一体感と孤独を、隣り合わせの極を同時に感じる。皇帝の突き出したベースが私の鼻先をかすめる。こんなに、近いのに。まだ柵も警備員も無いのに。手を伸ばせば届くのに。あんたはそこまでせり出してるのに。

 ロックバンドに出来ることなんて、奴隷を踊らせることだけなんだ。ここは日本、そっちはロシア。ステージとフロアの永遠の距離。どうせ連れていってくれないんだ。

「明日からまた日本で生きるさ!」

 連れてってよ。どっか行ってよ。どうせ行くなら、遠くへ行ってよ。

 その夜見えたのは、白く眩しい、ものすごく遠くへ飛んでいきそうな滑走路だったんだ。

2010年 / 14,057字(39枚)

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