ロシアンガンジャ 2
副流煙

(0)

 小さい頃からずっと、一番欲しいものを手に入れなかった。それがすぐ手に届く場所にあっても、なぜか私の手は逸れて二番目をつかんだ。それは「お姉ちゃんでしょ」なんて言葉が耳に染み込むずっと前からの記憶。親に貰った三十円を握りしめた私は、駄菓子屋まで駆けていって、汗と銅の匂いでべたべたになった手で、大好きなビスコではなくココアシガレットをつかんだ。今はコンビニで、リプトンではなく午後の紅茶を選んでレジに並ぶ。

それは、弟が隣にいなくても、親が後ろにいなくても。だから姉としての規範の内在化ではない。私自身の行動様式だ。

 二番目を選ぶと安心するのだ。いつかに一番目を選ぶ時の楽しみをとっておける。

 たとえその時が永遠に来なくても。

 それに、失望さえも先延ばしに出来るのだ。

 そんな風でも傍からすれば私は「聞き分けの良い長女」に見えた。

 学校でも、「扱いやすい優等生」。 

 コンビニの漂白されたように白い蛍光灯の光を、目を細めて純化すると、思い出の中のあの色とよく似る。

 小五の時の学芸会。シンデレラの衣装は、私の母の知り合いの舞台関係の人が中古品を提供してくれたため、小学校の出し物には不似合いなほど、美しかった。眩しかった。白銀色。

 私が主役をやりたい、と言えば、通らないはずがなかった。でも、学活の時間に私より早くそれを言ったのは、どもりの強い、内気な、それゆえ親によって劇団のジュニアクラスに入れられて、歌や劇やダンスの稽古をさせられていた、前髪の伸びた子供だった。

 銀色のスパンコールよりもギラギラと光るその眼を見てしまったら、私は、片手がかかっていた主役の座からあっさりと手を離してみたくて仕方無くなってしまった。

「やっぱ、いいです。親に見られるの嫌だし。ステージ出なくていいからナレーターやりたいです。うちの親、カメラとか出してうざいんだもん」

 小学校で教わる漢字は習う時点で既に全部知っていた。区の文集にも必ず作文を載せられていた。言葉が早くて、「新入生の言葉」も、卒業式の「在校生代表の言葉」もまかされてきた私。一番多い主役の台詞だって、淀みなく言える自信があったけど。彼女には劇しか無いのだろうから。

 先生は終業後、複雑な表情をしながら私を褒めた。親も褒めた。

 でも褒められたいからそうしているわけじゃないのだ。



 レジ待ちが長い。手にしたホットの午後ティと、かじかんだ指の温度がどんどん妥協しあっていく。

「何考えてんの、黙って」

 隣の彼の手が私の手の甲に触れる。

「……ぬるいなあ、ってこと」

「どれ」

 彼の手が缶ごと私の手を包む。温かい彼の手と、私の指の温度がどんどん妥協しあっていく。

 余りもののドラムスを選んだ彼。と、私の手。

 弟は何の躊躇も無く一番人気のギターを手に取る男だ。昔から。



(1)

 弟が実は私より頭が良いのでは、というのは家族の間ではよく言われること、でもとにかく不真面目で根気が無いので学校の成績はせいぜい中の上だった。ビーダマン、ミニ四駆、バス釣り、ポケモンカード……、コロコロ目移りする彼が唯一続いたのが音楽、といっても幼稚園から私と一緒に通い始めたヤマハを弟は小三で辞めた。エリーゼのためにも弾けないレベルで。

 成績優秀な姉が音楽クラブの部長もまかされ、合唱会や校歌の伴奏をつとめていた頃、苦痛な習い事を辞めて解放された彼はポケモンのステータスやミニ四駆のパーツ、カードゲームの戦略を覚えることにその知性を注ぎ、ホビーショップのちょっとしたヒーローになっていた。そう、彼の知性だ。習っていない漢字が読めるどころではなく彼はなぜかアルファベットが読めた。家族でドライブ中、窓から見える道沿いの看板を音読していた。

「Victoria」

「GOLF」

「Rover's」

「Vorks Wagen」

 なんとドイツ語まで。これが彼が小四の話。これなら、上級生を押しのけて、ポケモンカードの大会で関東代表になったのも当然だ。

 学校で禁止されているカードを持って行って、しかも賭けをしてカードを巻き上げていたガキが、私の自慢の弟。

「あの子の弟とは思えない」

「賢さの使い道がおかしい」

 先生や親たちの呟きを聞くたびなぜだか自分が褒められているよりいい気分がした。

 卒業式の国歌の伴奏もつとめ、優等生として無事小学校を卒業した私は中学では吹奏楽部に入る気でいた。毎日二時間、規則正しく一心不乱に鍵盤に向かう私を見た両親が、「この子の才能を広げてあげたい」と思ったのか「少しは鍵盤から離さないと気味が悪い」と思ったのか不明だが、春休みからヤマハの別コース、フルートクラスに通わせてくれたからだ。そのアドバンテージが無ければ例の癖でもっと人気の無いユーホニウムとかチューバとかを選んだだろう。メトロノームと睨み合う日々。ピアノのおかげで音感もあるし譜読みも早く、元来生真面目な私は誰よりも上達し、再び部長に推薦される。

 二年遅れて中学に入ってきた弟はサッカー部に入り、そこでロック好きの先輩にそそのかされてギターを買った。形から入る彼は、そそのかした先輩も驚くほどの高級品をポンと購入した。ポケモンカードを全部売ったのだ。レアカードは数千円、下手すると一万円以上で大人が買い取る。こうして、高校受験を控えた私の部屋の隣で、アンプ、エフェクターなど贅沢な一式を揃えた弟が爆音でギターを掻き鳴らすこととなった。

 私は下校時刻の六時までは学校の図書館、それから七時までは区の図書館で勉強することを覚えた。親が「お姉ちゃん受験なんだから静かにしなさい」と言うより早く、すみやかに。

 大事なのは、私が弟の第一のファンだった、ということだ。

 吹奏楽部を引退して使わなくなったメトロノームもチューナーも譜面台も全て彼のものになった。ピアノのレッスンで真面目に聴音訓練したため弟より音感がある私は耳コピも手伝った。弟はサッカー部の先輩らと、コードも押さえられないのにバンドを組んだ。形から入る奴なのだ。入部にあたって、ユニフォーム、シューズ、ボール、用具入れのボストンまで同じスポーツブランドで揃えたのに、それらは真新しいまま見向きされなくなった。

 弟は弟で、校内で有名だったのだ。上履きの踵を履き潰し、ガムをくちゃくちゃさせながら、授業中の人気無い廊下にビッタンビッタンとずった足音を響かせて、堂々と入室してくる遅刻魔が、私の自慢の弟。長身で、女子みたいに髪が伸びてて、指定のエンジの無地のネクタイでなく、隣の私立の女子中の紺ストライプを締めている、お騒がせな洒落者。

 弟にも私にも、姉弟をうっとおしく思うあの時期が無かった。

 引退後の私と、サッカー部をやめた弟は、お互い朝練がなくなったためよく一緒に登校した。何も知らない生徒が

「付き合ってるのかな?」

と言う、これが男でも女でも、面白くて仕方無かったのだ。

「ヨリコさんも、男子校のネクタイつけてみれば? そのダサいエンジリボンじゃなくて」

「やだよ。こっちは優等生で売ってるんだ」

 間も無くナロータイが流行って、弟はそのネクタイを加工した。

 ミシンをかけたのは、家庭科も5だった私だ。

 弟が発信源で、学校中の男子が指定ネクタイにミシンをかけて細くした。

 「弟に渡して」と言われて託される、ラブリーな絵文字やハートマークの詰まったお手紙の、誤字に片っ端から赤入れをしてから弟に渡すのが私の楽しみだった。

「馬鹿な女とは付き合いたくねえな」

 それが弟の口癖で、モテる癖に弟の隣にはどんな女子もいなかった。私はその言葉を聞くたび何故か自分が褒められた気になるのだった。

 そう言えばフルート吹きの優等生の私も男子から呼び出されたり手紙を貰ったりすることがたびたびあったが、大体女子に過剰な幻想を抱いていそうな、思いつめた様子の内気な男子だったし、残念ながら、メトロノームを凝視しながら銀の塊に唇を押しつけ続けることに夢中だった私はそんなことに興味が無かった。

 弟が七個目のエフェクターを買った頃、私は第一志望の国立に合格した。私の中学からその高校の合格者が出るのは五年ぶりらしく、担任には快挙だの名誉だのと随分褒められた。私は美術部に入ろうと決めていた。部長特権でカギを持っているのをいいことに、誰よりも早く、誰よりも遅くまで音楽室にこもる、フルート一筋の私から狂気じみたものを感じたのか、あるいは授業で描いたポスターが美術展に出たのに気を良くしたのか何だか知らないが、両親が、卒業後の春休みから絵画教室に通わせてくれていたからだ。

 まったくうちの両親ときたら、芸術に憧れているのか眉をひそめているのか分からなかった。

「多分、おそれてるんだよ。彼ら自身には芸術家気質が何もないから。我々姉弟の扱い方が分かんないんだろ」

 書き割りのテレビドラマに泣き笑い、芸能人の名前ばかり沢山覚えている彼らのセンスを鼻で笑うのが、我々姉弟の戸棚のおやつを盗み食いする楽しみだった。

 電車通学を始めた私と弟の共有時間は減ったけれど、ときおり、本当にときおり、試験勉強の息抜きにリビングに降りた私と、イヤホンをテレビにつないで頭をふるっている弟が出会うのが、稀有で愛しい時間だった。レディオ・ヘッド、ニルヴァーナ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。字幕には出ないけれど、画面の中で喋る彼らはファックファックばかり言っていた。イヤホンを片耳で分け合って、私も頭をふるった。

 それからツタヤで借りた、美術部顧問オススメの映画も一緒に観た。ゴダール、シュヴァンクマイエル、アンダルシアの犬。わけわからなすぎて笑った。

「まさに『ひとつの大きな疑問符』だ」

「わけわかんないけど、良すぎる」

「このわけわからなさが癖になる」

 父のベストセラーミステリー小説、母の昼メロドラマの録画に囲まれたリビングで、わけの分かりすぎるものばかり好きな両親と世の中を笑いながら、ぬるい、温かい深夜の連帯感だった。

 私を見込んだ美術部顧問はまたしても美術室の鍵を預けてくれたから、私はいつでも美術室にこもることが出来た。昼休みも、朝も、放課後も。相変わらずコアな男子には好かれたが、軍神マルスや青年メディチと見つめ合うことに夢中だった私は、やっぱり何も無かった。

 弟は生まれて初めて、その知性を遊び以外に注いだ。そして見事有名私立大学附属高に合格して、先生方の口をあんぐりさせた。

「附属に行けば受験無しで大学に行ける、もう二度と勉強しなくていい」

 それが全てのモチベーションだったという。

 ある日の食卓でのことだ。弟は、ひょうひょうとした調子でこう言った。

「俺さあ、高校で軽音入って、大学でもサークル入ってバンドやって、それで音楽で食うから。だから大学受験してる暇無いわけ」

 両親は、また何か言いだした、という顔をして聞き流した。押し入れの中に閉じ込められているビーダマンもキックボードもミニ四駆もサッカー用品も、ようく知っていたから。 

 でもその時の私と言えば、瞳孔に光の棒でも突っ込まれたかのように目を丸くしたまま停止して、ただひたすら眼球を乾かしていたのだ。だって、私が一生言えないような言葉を、何の気負いも無しに、こんなにサラリと、言ってのけるのだ。

 その時私は高校三年生で、鍛え抜かれたデッサン力をもってすれば日本で一番有名な私立美大にだって入れる、と、顧問に太鼓判を押されていた。でも、日本で一番偏差値の高い国立大学に入れる学力だって、私にはあった。

 私は、後者を選んだ。

 それは、例の癖だ。

 怖いのだ。一番目を選ぶことが。本気を出さざるを得ない状況に追い込まれて、本気を出して失敗することが。

「本気を出さないことって、すごい楽なの。私の場合、本気を出さなくても優等生でいられたし。それで褒められるのが嬉しいんじゃなくて、それを外れずにいるのがすごく楽なだけ。そしてそのうち、外れるのが怖くなってしまった」

 たとえ日本で一番の美大に行っても、その道で食べていける人は一握りだと聞いた。日本で一番偏差値の高い大学に行けば、食べる道はいくらでもある。

 大丈夫、二人が私立に行っても余るくらい、学費積み立てはあるんだよ。そんなことを子供に気にさせるなんて親の恥だ。お金のことは考えずに選びなさい。

 両親は怒っているともとれるくらい強い口調でそう言ったが、私にはどういうことか分かっていた。

 大事なのは、お金があるかどうかではなく、先のことを考えてきちんとお金を積み立てる両親の下に生まれた私にも、また、両親と同じ思考回路が備わっている、ということ。

 一番の情熱より、二番の安全。



 「器用貧乏」。それが私が世界で一番嫌いな四字熟語だ。

 何でも出来る、そつなくこなせる、この余裕が命取り。要はただのバカテクなのである。テクと余裕だけがありあまってて、何の覚悟も無く、だから、踏み出せないのだ、これだけ憧れているのに。



(2)

 大学では一から新しく何か始める気にならず、馴染んだ音楽の世界に戻った。でも吹奏楽ではなくオーケストラ、フルートではなくバイオリンを選んだのは、もう下手に一番になりたくなかったからかもしれない。物心ついてすぐミニチュアサイズのバイオリンを握り、身体と一緒に楽器もサイズアップしてきたようなお嬢さんやお坊ちゃまが、すでにオケの前列を埋めてくれているから。

 ああ、何だか、後ろの方に座るのは気楽だなあ。バイオリンは部隊のようで、弓の返す時はもちろん、弦を抑える指から何から全てコンサートマスターが決めて、メンバーは楽譜に書き込む。一番後ろの席で、第一バイオリン全員の弓が完全に同時に返る驚きの美しさに圧倒されながら、中学時代の無心の基礎練とはまた違う、やすらぎを覚えた。

 ちょっとだけ普通の人になれたのが心安かったのだ。

 後ろに下がった分視界が広くなったのか、それともそれまでの鬼気迫る感が抜けたのか、普通の、コアじゃない、皆に好かれそうな男の子に好かれるようになった。

「おーうヨリコさん、キャンパスライフ堪能してんじゃん。サークル、デート、大忙しの女子大生って感じ!」

 五センチヒールのリボン付きスエードパンプスに膝上のティアードスカート、バイオリンを携えて親の寝た時間に帰宅する私を玄関先で見つけて、弟が愉快そうに言う。

「楽器とか絵にかける情熱を、ちょっとだけ他人に割いてみただけだよ」

「へえ、あの練習の虫が。ついに男っ気が出てきたわけか。どう、楽しい?」

「楽しいか、っていうと……どうかな」

「『恋愛は生きる芸術だ』って、ジャダールの映画で言ってたよ」

「全然芸術的じゃないよ。今日会った彼、ケータイ小説みたいなクサい台詞、平気で吐くし」

「何それダセえ。逆に見たい。今度連れて来てよ」

「やだ。失望させるから」

 弟があんまり良い男というのも考えものである。

「ねえ、芸術を生きるのと、芸術を生むのって、両立しないのかなあ?」

「ん? 恋愛と、芸術作るの、ってこと?」

 こういう時、弟はすごく頭が良いと思う。こんな不親切な言い方でも伝わる。血が繋がっているからだろうか。

「俺見ろよ、両立してんじゃん。今から曲書いてギター弾くんだ」

 見れば弟も帰って来たばかりのようだ。ブロックチェックのタイトなシャツにジャガードニットのカーディガン、美しいタックの入った細身のスラックス、八分丈の下からアーガイル柄のソックスが覗く小気味良い格好、そして煙草の匂いと、女物らしき香水の匂いが漂ってくる。一体どこに行っていたのか。その高そうな服はどこで買うのか。野暮だから、聞かないけど。

「あー私も、日常会話にジャダールを引用するような男の子と付き合いなー」

 パンプスを脱ぎ捨てながら、親が起きないぎりぎりの大きな声で言った。

「そんな平凡なモテ服着てたら永遠に無理だね。それ映画じゃなくて、テレビドラマの衣装じゃん」

「何さ、モテ服着てモテて楽しくて何が悪い……」

「さっき楽しくないって言ったの自分じゃん。ま、ヨリコさん変人なんだから、諦めな。諦めてモテるか、諦めてモテないかのどっちかだよ」

 華麗に言い捨てて弟が自室に去った。

「何! 自分は男だからってさ!」

 間も無く聞こえてきた、アンプを通さぬエレキギターのチューニングがひどかったので、

「ちゃんと調弦してから弾いてよ気持ち悪い!」

 と叫んで弟の部屋の扉を蹴った。

 その時作っていた自作の曲で文化祭に出るというので、その、芸術的じゃない彼氏と見に行った。思えばその時、弟のライヴを初めて観たのだ。男子校なのに制服の女子がいっぱい溢れていて、文化祭が「ナンパ祭」と呼ばれるのもよく分かった。ステージの上の弟は、いつものタイトでニートな格好に、おしゃれな白いハンチングを被っていて、しかし近付いてよく見るとそれはブラジャーだった。同級生らが押し寄せ騒いで大変な騒ぎになっている中で曲が始まって、私は息を呑んだ。

 なんて綺麗なギター。タイトでニートで、まるで服装と一緒じゃないか。

「ねえねえ、すごくない?! あいつ、家じゃリズムキープもチューニングもまともに出来ない、ダルいギター弾いてるのにさ、バンドで聴くとすごく格好良いよ! やっぱ、ちゃんとしたアンプ通して、おっきい音でやるとちゃんと聴こえるんだね! オケと一緒だね! 個人よりアンサンブルの力が物言うんだね!」

 轟音の中で隣の彼氏にまくしたてた。

 「ポップティーン」という名のそのバンドは、ポップで小気味良いサウンドでノリやすい、でも時々突然転調したり五拍子になったり、節操の無い、まさに弟みたいなバンドだった。

 最後の方なんて

「お前の自尊心なら俺の隣で寝てるよー!!」

 と叫んで彼が投げ捨てたブラジャーに男子が群がり女子が逃げ、

「レディオヘッド!」

「レイジアゲインストザマシーン!!」

 とか言いながらメンバー全員が機材に頭突きをかまし、ステージがぐちゃぐちゃになって終わった。

 はじめは授業参観に来た保護者みたいな気持で後列から眺めていた私も、最後には高校生たちと混じって前列に乗り込み、死にそうになるほど笑った。

 帰りの電車の中でも興奮冷めやらず、私は彼氏にまくしたて続けていた。

「弟、本当に音楽で食べていけたらどうしよう! ねえ、どう思った? 高校生で曲も演奏もあのレベルってすごくない?」

「うーん、確かにすごくうまいけど、でも、ちょっと変わってたよね……基本聞きやすい感じなのに、いきなり拍子変わったり、ギターが独走したり……クセがあるっていうか」

「え、私そこ全部いいと思ったのに」

「あと歌詞がムダにエロいし」

「そこがいいんじゃないの?」

「え、そうかな……? あ、あとブラジャー投げたりとか、どうなの? 女子的にはああいうの」

「え、どうって?」

「なんか、嫌じゃないの?」

「えー面白いし。女子高生みんな喜んでたじゃん」

「えっあれってヒいてたんじゃないの? キャーって言ってたけど」

「喜んでたに決まってるじゃん」

「そうなんだ……」

「そうだよ。女子高生なんて隠してたってみんなエロいんだから。自分の株下げてでもみんなのやってほしいことやるのが芸術家魂じゃない? って言っても結局あいつモテるんだけどね」

「なんか、ヨリコ、今日いつもとちょっと違うね……よく喋るし」

「え、そう……?」

 この後訪れた長い沈黙が私達の間で尾を引き、間もなく彼とは別れてしまった。

 私はマルイで服を買うのをやめた。弟をちょっと観ただけで剥がれてしまう正体だったのだ、取り繕う意味も無かった。

 こうして私は、失うものを痛いとも思わず、弟のファンとしての烙印を喜んで受け入れたのだった。そんなものそもそも、遺伝子に編みこまれていたのかもしれないけれど。

 その後私は専攻選択の時期になり、「超域メディア表象」という、弟に「技の名前みたい」と言われた名の、社会学と美学と文化人類学をミックスしたような、何をするのかよく分からないが人気の新設学科に進んだ。そしてメディアアートとかアートトリエンナーレとか、要は芸術と、芸術を提供する場と、芸術を提供する人との関係についてのフィールドワークをするゼミに入った。卒論は八万字。薄い新書なら一冊分になる、大作である。ゼミの担任からは学校に残り研究職に進むことを強く勧められたが、学者なんて三十まで食べれないと知っていたし、それなら美大に入るのと一緒だった。私は輝かしい履歴書を手にして片っ端から企業を巡り、絶対に潰れなそうな、誰もが知っている大きなシステム会社に入った。

 同じ頃、大学二年生を終えた弟の留年が確定した。



(3)

 我らが両親の、芸術に対するアンビバレントな態度がついに一方に帰着した。サークルの仲間とつるんで朝帰りし、機材とスタジオ代を稼ぐためにバイトに明け暮れ家を空けてばかりになった弟の、諸悪の根源はバンド活動に帰結した。私が練習や飲み会でいくら遅くなっても、バイオリンのせいにはならなかったのに。それは、ミニ四駆やキックボードやサッカー用品の中に、角も取れていない経済学の教科書が加わったから? だとしたら唯一そこに加わらずにいるギターをなぜ憎むのか。私は彼らの理屈が分からなかった。

 要は、恐れているだけ? 昔、弟が言っていたように。

 違う、利害があるからだ。弟がドロップアウトして、「夢を追いかけるフリーター」になったら、金銭的にも社会的にも害を被るのは親だから。何も損しない私だけがひょうひょうと弟を愛していられるのだ。

 ファン。

 似た遺伝子が自由に暴れているのを見るのは楽しい。だから、それを「弟思いの姉」とか「姉弟仲いいね」と言われてもてんで見当違い。

 私が成し得ないことを成す、私と共有する四分の一の遺伝子の反実仮想を、現実の上で見ているだけなのだ。

自己愛。



(4)
 サークルメンバーで組んだ弟のバンドは外のハコでの活動も軌道に乗り、「外客がついた」「ディスクオニオンのインディーズ館から追加注文が来た」と弟は無邪気に喜んでいた。でも、「二十四で売れたい」が口癖になり始めた頃、誰よりも遊びの才能を持つ少年が、自分で自分を少年でなくしてしまった。勝手に時間の柵を作って窮屈にもがき始めた。

 弟のバンドは「不時着」と言った。「決して安全運転じゃないポップ」がモットーの、3ピースロックバンド。当時の私の彼氏に「ちょっと変わっている」「クセがある」と言われた彼の方向性はそのまま、モラトリアムを栄養にすくすく育つはずだった。

 なのに彼が二十歳になった頃、「不確定性原理」という名のバンドが現れ、インディーズ界を席巻した。似ているのは頭文字の「不」だけではなかった。お決まりをおちょくる、人を食ったような曲進行、アンバランスなほどに突如我を張る個々の楽器、嫌味なインテリ臭と皮肉が効いた、でも結局思わせぶりなだけで意味不明な歌詞。それでも、悔しいほどにポップ。あっぱれなほどウェルダン。

 「ズルい」「クセになる」「なんだかんだで聴いてしまう」と皆を虜にし、インディーズながらオリコン十七位を獲得するという異形のバンドだった。かくいう私だって見事にハマったのだ。そして、弟も。

 自分がこれから作ろうとする音楽の、より完成度の高いそっくりな成功例を提示されたら、どういう気持ちになるだろう。

 「自分がやる意味なんて無いじゃん」と「この通りにすれば売れるんだ」に挟まれて、弟はまともじゃなくなっていった。

 アトラクティブな弟が、実は不安定な気質を持っていることを、私達家族は知っていた。

 小さな頃から緊張するとすぐ吐いたり下痢したり、消化器官の弱い子供だった。小学校では毎年夏が近づくと必ず国語の時間で戦争に関する物語を読まされる、その時期になると毎朝ぐずったり、夜中に起きて母にすがりついたりしていた。カギのかかる狭い場所が嫌いで、外ではどうしているか知らないが家ではトイレの鍵を絶対にかけない。半開きのまま用を足す。でも同級生を体育倉庫に閉じ込めたこともあったし、それよりもっと小さい頃は、トンボを両手の中に閉じ込めて、圧死か窒息死させていた。

 合法になる前から飲んでいただろうが、晴れて合法で飲めるようになった弟の酒量は増えた。

 私が仕事で遅くなって息を切らしながらライヴハウスの扉を押し開けると、既に最後の曲のフィナーレを迎えた不時着の演奏が耳に飛び込んで来た。

「『どうせ君の個性なんて! 指紋くらいしか無いんじゃん!』」

 はっきりとした違和感を感じた。いつもはこんな風に荒っぽくやる曲じゃない。聞かせどころのメロディも喉を潰して咆哮し、とっておきのリフも歪ませ過ぎで聞き取れない。

「ヨリコさん聞いてよ、このリフ。一年前に思いついたけど使い道無くて、ずっと温めておいたんだけどさ、曲に出来そうなんだよ。すげーいい歌、ついたの、今。やっとお披露目できるわ! 絶対これ、キラーチューンになる!」

 数か月前弟は、部屋でギターを抱えながら嬉しそうに言っていたのに。お気に入りにあの曲を、自分のせいで駄目にしている。収集がつかなくなったのか、ギターを放り投げて退場し、ベースとドラムスが帳尻を合わせ、とりあえず終わらせた。

 さっき受付を通った時に聞いた、ロビーでしゃがんでだらだらしている女子二人の会話を思い出す。

「不時着はパスでいーよねー」

「あーあの、不確定性原理のパクリみたいなバンド?」

「てかパクリ以下。演奏、さっきから壊れ過ぎじゃない?」

「なんか迷走してるよねー」

「パクリパクリ言われてヤケになってるんじゃないの? さっきギタボの人超飲んでたよ」

「終わってから飲めばいいのに」

 内心本当はどうなのかはともかく、飲めば弟はとりあえず陽気になった。

「ヨリコさん来るの遅せーよ! この社畜が! 残業魔!」

 フロアに下りた弟が、私を見つけてタックルを食らわす。酔ってリミッターが外れているから、まともに食らった私は床に腰を激突させた。

「ちょ、大丈夫ですか? もー高橋君酔いすぎだから。なになにこの美人、高橋君の彼女?」

 私を助け起こしたライヴハウスのスタッフの人が弟をつつくと、

「違う違う、ただのサイフですよ。おれ、ジゴロやってんの」

「まーファンなんてただのサイフですよねー」

と私も嘘を言わぬ範囲で適当に合わせる。

「え、ジゴロって何? 財布のこと? え?」

「あってか今日俺、家の鍵忘れたわ」

「じゃあ一緒に帰ろう、たまには朝帰りしないでお布団で寝た方がいいよ」

「じゃあそういうことで嘉島さんまた! お疲れーっす!」

 と言ってぽかあんとしている嘉島さんを残し、弟は私の腕を引っ張りライヴハウスを華麗に去る。

 地下鉄の通路の響きがいいのが気持ち良いのか、酔った弟は「フー!」とか「イエー!」と叫ぶのをやめない。金曜日の夜の渋谷には他にも酔っ払いがいっぱいいて、遠くから「フー!」と返ってきたりして楽しいコールアンドレスポンスが始まる。我々はライヴハウス気分が抜けなくてもほかの人にとってはただの日常なのだから、通行人からはジロジロ見られて仕方無い。

 キワキワで終電に滑り込んで、最寄り駅に着いたら深夜一時の住宅街で弟はまだ何かをあり余らせている。

「ラーメン! ラーメン食べようぜ依子さん!」

「こんな時間にラーメン屋やってるわけないじゃん……」

「うるさい、飲んだあとはムショーにラーメン食いたくなるんだよ! うおー! セックス! ドラッグ! ラーメン!!」

「ロック抜けてるよ……」

「腹が減ってはロックは出来ねえ!」

「もう、そんな元気あるならライヴで使い切ってよ……」

「使い切れねえからフラストレーションなんだよ! うおー、破壊衝動! 目につく全てのモノを壊しつくしてえ!」

 弟はエフェクターボードを放り捨てると帰り道を爆走しながら片っ端から民家のピンポンを押しまくっていく。

「ちょ、待って!!」

 私はエフェクターボードを拾うと慌てて後を追う。このまま見つかったら、私が犯人にされてしまう。寝静まったベッドタウンに虚しく陽気なチャイム音と、自分の呼吸音だけが耳にクリアだ。弟は速い。持ち慣れぬエフェクターボードは金属製の大きな箱で、重いし硬くてスネに当たるし、全速力に慣れぬ私の心臓は喉までせり出して来て苦しい。でも私は、不謹慎なほど、無性に、わくわくしている。

「どうせ俺の個性なんて! 指紋くらいしか無いんじゃん!」

 20メートル先を行く弟が歌っている。「秋の交通安全週間」と書かれた旗を引っこ抜いてヤブの中に放り投げた。バス停を殴りつけた。工事現場の近くの赤いコーンを振り回して、民家の犬小屋に突っ込んだ。

「不確定性原理死ねー! 俺らの方が結成早えっつーの!!」

 どうやら本当に、路上の全てのモノをどうにかしたくてたまらないらしい。

 犬が思いのほか在宅で、キャンキャン吠え出したので弟の腕を引っ張り最後の全力疾走をしてやっと家についた。買い置きのカップヌードルを出して、二人ですすった。

 弟は翌日二日酔いでバイトを休んだ。私は楽しくて仕方無かった。弟がダメダメになるほど面白かった。励まさず、慰めず、ただ面白いからずっと見ているのだ。だから愛ですらも無い。あえて言うなら自己愛。姉としては失格かもしれない、でも、それ以前にファンなのだから。あの、踊る四分の一の遺伝子の。

 ずっと、二十年間、そうあり続けてきたのだけれど。

 

(5)

 その日は仕事で嫌なことがあり、私はちょっと落ち込んでいたのだ。とある美大が教務課のシステムの新調を検討しているとのことで、私は先輩と共に営業へ向かった。システム会社が何社も呼ばれ、それぞれ三十分程度プレゼンを行う。ゼミで鍛えたプレゼン力で、私の説明はまるで立て板に水、質問にも明確に答えた。そもそもシステムの質も社の知名度も私のところが一番だったし、絶対勝ち取れると思っていた。なのに、実際選ばれたのは、はるばる静岡からやって来た、朴訥としゃべる、地味なプレゼンの、パッとしない機能しか持ち合わせぬ、誰も名を知らぬ小さな業者のシステムだった。私には分からなかった。先輩はフォローしてくれたが、プレゼンを見ていない課長が意味の分からぬ嫌なことを言った。

「何でも出来るんだろうけどね、あんたは。実際、何でも出来るんだけどね。何かやろうっていう情熱が無いんだよ。商品の質とか経済性とかちょっと足りなくても、情熱ある人にやってほしい、人はそう思うもんだよ。君ねえ、うちに採用されたの、どうしてだと思う? うちは大きい会社だから、優秀で器用で賢い人、不器用だけど情熱のある人、大きい組織だからいろんな人が要る。でも、ただ一人しか採れないとしたら、どっちを選ぶと思う? そういうことだよ、今回のことは」

 もしかしたら、また例の癖が出ていたのかな、と、説教を聞きながらぼんやり思っていた。プレゼンを見ていた先輩には絶対バレない、完璧なシステマチックを演じるという皮肉なやり方で、一番に選ばれることを巧妙に回避していたのかもしれない。

 でもそれはただの自分のための言い訳かもしれない。何にせよ、汚いものが自分に溜まる。私の苦手な体育会系、精神論者、見てもないものを批判する人。

あの人はあなたの大学を落ちて私立の仮面浪人までしたけど二度目もダメで、結局その私立を卒業したんだよ、先輩がなぐさめついでに教えてくれたけど。

 プレゼン先の美大で見かけた、何十個もの扇風機を並べて一心不乱に絵の具を塗りたくっているボロボロのつなぎ姿の学生を思い出した。

 器用、優秀、情熱が無い。私だってなりたくてそうなったわけじゃない。 

 体調が悪いと言って定時であがり、ライヴハウスに駆け込んだ。入社以来初めての不良行為だった。

 かといって弟が救ってくれるわけでもなかった。演奏は前よりひどくなり、弟のサークルの子たちから不時着解散説を聞いた。

 しこたま飲んだ弟はもはや立てなくなっていて、終演後のバーにボロ雑巾のように引っ掛かって半分眠っていた。出演者やスタッフ、サークルの仲間が楽しそうに喋っている。これから朝まで飲んだり誰かの家に泊まったり楽しく過ごすのだろう、こんな弟がいたら荷物だろう。バンドメンバーから弟の楽器と荷物を受け取り、前にリュック、後ろにギターを背負って、左腕でエフェクターケース、右腕に弟を持って運搬する。右腕に馴染んだ感触、と思ったら、

「あー、あんた私のコート勝手に着てる! やめてよ伸びるから! タバコ臭くなるし!」

「ん……ここどこ……? なんで依子さんいるの……?」

「ライヴハウス出て、駅行くところだよ。もうやだなあ、ちゃんとクリーニングして返してよね、絶対お酒とかかかってるし……」

「いいじゃん俺の方が似合ってるし……ラーメン!!」

 と言って突然覚醒した弟は私の腕を振りほどいて赤いのれんへとダッシュした。夜十一時の新宿二丁目は華美な人、すさんだ人、いろんな人がいる。それらを押しのけぶつかりながら、無鉄砲に駆け出す弟にヒヤヒヤしながらついていく。

 弟は酔っ払い特有の気の大きさで、

「ラーメン二個! 特盛、トッピング全部乗せ!」

「ちょっとやめてよ、私お腹空いてないのに」

「俺が二個食う!」

更に食べ切らぬ前から

「替え玉二個!」

「何考えてるの、食べれるわけないじゃん。てかどんぶりからこぼれるよ……」

「いけるいける」

 しかし当然いけるわけがなくて、結局はじめに注文したものさえ食べ切れずに、テーブルの上は子供が粘土遊びでもしたかのように、こぼれたスープとはみ出た麺が飛び散って、黄土色のしっちゃかめっちゃかだった。

 私は食べ残しを見ると昔から涙が出るほど切なくなる。お店のおばちゃんに何度も謝って、貨幣経済というものを忘れたかのようにシレッと立っている弟の横で私が二千円近くのお金を払う。ラーメン二杯で二千円って。

 弟は駅へ向けて混雑を増していく通りをまっすぐにさえ歩けぬ、ただの酔っ払いだった。小さな段差で二度派手に転んだ。ハイヒールと盛り髪のお姉さんに迷惑そうな視線を投げられる。怖いお兄さんにぶつかってしまい、本気で睨まれる。駅までまだ五百メートルはある、半分も進んでいない。ギターが肩に食い込んで痛い、エフェクターボードが重くて手がちぎれそうだ。ゆらゆらゆれる弟を右腕で舵取りするのももう限界、弟が重い。

 こんな風に思ったことはなかった。いつでも誇らしくて、彼氏と間違われたら嬉しくて、実は姉ですとバラすのがとっても楽しかった。ギターケースを背負ってみるの、憧れだからちょっとやってみたかったけれど、ダサいスーツとダサいパンプス、ダサいコートの私、どう見てもただの酔っ払いのあわれな介助者。はじめて、みじめだと思った。誰か助けて、今、楽しくない。知らない人ばかり。認めて、私、困ってる。

 このままじゃ、弟を嫌いになってしまう。

「大丈夫ですか?」 

 突然声がして、私の左腕が急に軽くなった。

「高橋君、最近壊れてるよなー、あ、こっち持ちますよ」

 声の主は右側に移って、弟の逆側を支えてくれた。私は両手が急に自由になった。

「エフェクター、重いっしょ。高橋君いっぱい使うしね」

「あ……もしかして、ドラムスの人、ですか……? 据え膳の」

「あ、そうです、サポートです。よく分かりましたね、顔、覚えにくいってよく言われるのに」

 さっきのライヴの対バンで出ていた『据え膳』という名の女の子バンドに、一人だけ男の人が混じっていたから、たまたま覚えていたのだ。

「高橋君の、友……彼女、さんですか?」

「いえ、姉です」

「あーお姉さんなんですかー! 確かに似てるなー!」

 ライヴハウスで何度も交わされたやりとりをして、両手は軽くなっていて、私は私と認められる。やっと安心して、突然ぶわっと涙がふき出してきた。

「どうしたの……?」

「う……なんか……う……」

「泣くほど困ってたんですか?」

「うん……う……はい……」

「……いいお姉さんですね。ギターも持つよ。とりあえず駅まで弟君運びますね。俺も帰るところだったし」

 しかし彼は結局私達の最寄りの駅まで送ってくれたのだ。

 弟を座席に収容して、眠りこける弟を前にして私達は立って話し続けた。弱った時に助けられ、心を開いてしまった私はなんと今日あった会社の嫌なことも全部話してしまった。彼は話を聞くのがとても巧い。

「正直、彼女じゃないって聞いた時安心したよ。今日ずっと、可愛いなあって気になってて、帰り道で見かけてよっしゃ! って思って声かけたの。俺いろんなバンドのサポートやってるから、また見に来て下さい。メールするよ」

 そうやって、彼は私の心に忍び込んだ。無駄無く、最短距離を、滑らかに。

 それが「スパイ」の手口だった。



(6)

 当時はスパイはまだスパイではなくて、名前は上村譲と言った。譲ると書いてジョー。仲間は皆カミジョーと呼んだ。

「なんか皆、俺の本名カミジョーナントカだと思ってるんだろうな。なんかそういうの痛快」

と、スパイっぽいことを言っていた。

 「トリカブト」というすごい名前のハードコアなバンドでしばらく叩いていたが、解散したので、今はいろんなバンドのサポートをしている。落ち着かなくない? と聞いたら、

「すごく良いバンマスに出会えたらもちろん正式にやりたいけど、見つかるまではこのままでいい。一度組むと身動きできなくなるし、しばらくこうやっていろいろ勉強するのもいい」

 と言っていた。

 歳は二十五で私の二つ上、高校からドラムスを始めて、大学進学で上京しながら本格的にバンドを組み、今は大学時代の英文科の先生のツテで、英文添削や塾講師のバイトをしながらバンドを続けている。TOEICは九百点。

 初めて彼の家に入った時、添削しかけの答案の山と、触ったら崩れそうなほどボロボロになった英和辞典、それから折れたり割れたりして用済みになった、夥しい量のスティック、練習用のパッドが雑然と転がっていて、ああこの人は私と似ているな、と思った。そう、なんというか、興味の対象と、その持ち方とが。学問と、芸術への情熱の注ぎ方が同じで、フィールドが違うだけに過ぎない。メトロノームを睨み続けた中学時代、石膏像を睨み続けた高校時代を思い出す。

「ねえ、基礎練とか、あと受験勉強でひたすら英単語覚えたりするの、好きだったでしょ」

「好き。超好き。今も好き。修行みたいで心が落ち着く」

 そんな彼が、私のことを、どういう対象として興味を持ったのだろう。その部屋のベッドで、そのストイックな基礎練によって鍛えられた上腕に頭を預けた時に、聞いてみた。

「なんか、危なっかしかったんだよ。そもそもスーツ着てライヴハウスくる人少ないから、目立ってて、しかも化粧とかきっちりしてるしすげえ美人でバリキャリな感じで、『これはレコード会社の人か?!』とか思ったんだけど。でもなんか……、不時着を見てる時、泣きそうな顔してて……子供みたいで。この人なんか、ちぐはぐだな、と思った。この人は今、居ないところに居ない人なのかなあ、って。とりあえず『プハーッ! 仕事終わりのビールはたまらないね!』なんて絶対やらなそう。当たってるでしょ」

「当たってる! なんでそんなに分かるの初めて見ただけで?」

「俺と一緒だからだよ。……俺、本当はサポートとかじゃなくて、定住したい。でも前のバンドも解散する時いろいろあったし、バンドは一度入るとやっぱすごい縛られるから、本当にやっていいと思える縁があるまで、待ってるんだ。据え膳もまあ、嫌いじゃないけどね」

「食っちゃダメだよ」

「どっちかっていうと、食われてる感がある」

「ははっ、据え膳のフロントマン、みんなキャラ濃いからね……!」

 なんとギターボーカルは生理周期を公言し、それに合わせて「満月」「半月」「新月」のいずれかを演奏するのだ。

「……じゃあさ、私の問いに対する答えは、要約すると、似てるから興味持った、ってこと?」

「理屈好きなところまで似てるな、そうだよ。あと、当たり前だけど、可愛いから」

 そう言って彼の腕に抱きすくめられると、なんだか丸め込まれた気になるが、それはそんなに嫌な気分ではなかった。

「君さあ、あんまり正面切って可愛いって言われたこと無かったでしょ」

「うん……? そう、かも……」 

 確かに男の子には言われたこと無かったかもしれない。  

「頭いい奴ほど正攻法に弱いんだよ。ど真ん中って意外と理論武装出来ないから」

 ああこうやって負けるの、すごい嫌いだったはずなのに。自分の心理を得意気に解説されるの、すごい嫌いだったはずなのに。この人にそうされるのは、なぜか気持ち良い。秘密を明け渡した後の、潔い敗北感。この人の前だといくらでも自白してしまいたくなる。

 弟のバンドは結局解散してしまった。誰のアンチテーゼでもない、誰よりも自由な少年だった弟が、誰かのアンチテーゼに成り下がってしまった、少なくとも傍からそう見えた悲劇。留年が決まっている弟以外の、同学年のメンバーは、そろそろ就職活動を始める時期だ。そんなことで温度差が出来たのかもしれない、と思ったりもした。

 弟はしばらくフラフラしていたが、二三か月の浪人生活の末、突如転機が訪れた。

「蛇介だよ、ゼロセンの黒木蛇介だよ! なんで俺なんかに!」

 ある日の夜中、そう叫びながら玄関から駆け込んで来たのだ。

「ゼロ……セン……?」

「『ゼロ番煎じ』。俺みたいに、インディーズでバンドやってる奴なら大体知ってる、数年前のすごいバンド! うわー」

 弟はしばらくソファの上を転がったりクッションを天井に放ったりキャッチしたりと、珍しく興奮した様子だった。

「それがどうしたの?」

「その人と、バンドやるの! 誘われたの、俺! ひょわー!」

 弟はソファの背もたれをなでまわしたり、跨ったり、とにかく落ち着きが無い。

「その人、ギタボなの?」

「そうそう、ゼロセンのバンマス!」

「で、その人とバンドやるとしたら、あんたギターだけ? 歌はやらないの?」

「そうだよ、リードギター。蛇介さんがギタボ」

「あんた、歌作るの好きだけど、いいの?」

「いい。全然、いい、とりあえず、構わない!」

 弟は深夜の住宅街にも関わらず、CDをかけて音量を最大にした。

「とりあえず依子さんも聞け! ゼロセン最後の自主音源。俺も現物は持ってなくて、サークルの奴にコピーしてもらったんだー廃盤だから貴重なんだぞ!」

「いいから、落ち着いて。ヘッドホンつけてよ、ちゃんと聞くから」

「正座して聞け」

 私がコンポの前に正座してヘッドホンをつなぐと、祭囃子をロックでやっているような、激しいんだけど切ないような、なんとも言えない、痛切に胸を掻き立てる音楽が聴こえてきた。

「超、格好良いだろ」

「超、格好良いね」

「日本的リズムとか音階とかとり入れてるから、なんか、懐かしいんだよ。格好良くて、ノスタルジー。みんな好きに決まってるじゃん。インディーズ止まりだったんだけどミュージックラバーにはすごく評価されてて、でもあっさり解散しちゃったよ。俺もサークルの合宿でコピーやった。『二番煎じ』って名前で」

 そんなにリスペクトしていたバンドのバンマスから誘われただなんて、相当嬉しいに違いない。浪人生活のここ二三か月、随分塞ぎ込んだ弟を見ていた私も、これで弟が元気になると思い、安心したのだ。

 弟と黒木さんと、あとベースとドラムスを集めて結成された新しいバンドは「クロビシン」と言った。

「ねえねえ今日から俺、黒井豹になるから!」

 また深夜にはしゃいで帰って来た弟は、両手いっぱいに紙袋を携えて、そう言った。

「クロイヒョー?」

「黒・井・豹。名前名前。クロビシンの時は黒井豹でやるから」

 どうやらベースの人の本名が黒澤龍彦で、黒木さんも黒がつくので、全員「黒」の苗字で統一することになったらしい。

「で、ドラムスの人はなんていうの?」

「黒野・トリガー」

「何それ外人?」

「いや、ゲームの名前からとったらしい」

「ふ、ふうん……」

 クロイヒョー……。AV女優の名付け方みたい。はしゃぐ弟の前で正直ダサいとも言えずにいると、弟は紙袋の中身を派手にぶちまけた。

「これ、黒木さんから貰った!」

 三越の紙袋の中身は全部洋服だった。

「ちょっと古いけど、すごくいいやつなんだよ。形もオーソドックスだから、今でも着れるし……」

 そう言って弟が着てみた黒のジャケットは確かに仕立ても良いし、生地もつやつやで上等そうなのだが、肩が微妙にいかっていたり、ラペルがラメで縁どってあったり、ディテールが何とも、ディスコっぽいというか、バブリーである。

「ねえ黒木さんって今何歳なの……?」

「んー、三十ちょい超えくらいじゃん?」

 ガリガリの二十代だった時の服がさすがに入らなくなり、弟にくれたのか……。タンスの奥の木の匂いのようなものが、部屋に漂う。

「あんた、もう黒木さんに服貰うのやめたほうがいいよ……」

「えーいいじゃん。まあ、確かに、普段着るには派手だけど、ステージ衣装にも使えるし」

「え、黒木さんのバンド、むしろ着流しでも着てそうなイメージだったんだけど……?」

「ゼロセンの時は着てたよ、でも今回はもっとアーバンでスタイリッシュなイメージのバンドにするんだって」

「ふうん……」

 アーバンでスタイリッシュ、か……。というかゼロセンでは本当に着流しを着ていたなんて驚きである。

 しかし、「ステージ衣装なんて言葉がダサい、というか衣装、という言葉がダサい。というか衣装とか言い出す奴大抵普段着がダサい。そして衣装もダサい」とか馬鹿にしていたのは他でもない弟だったのに。他にも三越の紙袋からは、豹柄のレギンスやナポレオンジャケットや、ものすごく衿の高いシルクシャツなど、キワどいものがたくさん出てきた。小綺麗なおしゃれが好きだった弟は、こんなものを喜んでもらってしまうほど、黒木さんにイカれてしまっているのか。

 弟は練習の鬼になった。ピアノレッスンでは大の嫌いだった退屈な音階練習、ギターでなんか一度もやったこと無かったのに、突然教則本を引っ張り出してやり始めた。もともと器用な達だから上達は早く、壁一枚隔てて聞こえるギターがめきめき巧くなっているのを聞いて、楽しみにしていたのだけれど。

 クロビシン初ライヴはもちろん私も観に行った。平日、小さなハコでの一バンド目なのに、すでに数十人の客がたむろしていて、数年前とはいえゼロセンの人気をしのばせる。弟の初ライヴの時なんて、サークルの内輪客五人しか来なかったというのに。

 私はセッティングに現れたメンバーを初めて見た。

「う、お……」

 なんと弟は、あの豹柄のレギンスを履いている。今まで身内がステージで何しても、ブラジャーかぶっても恥ずかしくなかったのに、急速にこの場から去りたくなる。左のベースの人はなんとスカジャン、背中に龍の刺繍が入っている。今時上野アメ横でしか買えなそう。そして中央黒木さんはぴたぴたの革パンにサイボーグみたいなサングラス、そしてギターの面が蛇革柄だ。

「えー、クロビシンです。我々は、架空の生き物」

 と言って黒木さんがサングラスを捨てたのを合図に、派手に演奏が始まった。音の圧力に吹き飛ばされそうになった。バスドラが打つたび腿の間を一瞬風が通り抜ける。全ての音がひとつに揃い、完璧なタイミングで飛んで来るから、心臓を直接叩くように、心拍のように打ち抜かれる。巧い。すごく巧い。でも……。

 「ゼロセンの蛇介」を待ちわびていた、踊り跳ねる客の間で、私は違和感に立ちすくんでいた。何か、すごく巧いけれど、何かが足りない。弟は信じられない速弾きで聴衆の喝采を受けている。鍵盤の上じゃ全然回らなかったあいつの指が、ネックの上じゃ、何倍も軽やかに、華麗に舞っている。巧くなったなあ。でも……弟の言葉を思い出す。「格好良い上にノスタルジー」。そうだ、ノスタルジーが足りないのだ。アーバンでスタイリッシュ、か。ただそれだけなのかもしれない。

「すごく巧いし格好良いけど、特にまた何回も観たいとは思わなくて、それっきりになっちゃうバンドってあるよね」

 私の中で、弟のバンドが、初めてそれに入った。

 一緒に観に行ったのは、スパイだった。

「確かにゼロ番煎じとは全然違ったな。でも、あれはあれで良いっていう人もいるよ。ただゼロセンファンは、前の方が良かったって言ってる人が多いね」

 ケータイのSNSサイトで本日のライヴの書き込みをチェックしながら、スパイが言う。

「ま、そんなもんだよ。バンドなんて生き物だし、メンバーが違えば全く別物。今回は蛇介のコンセプトも違うようだし、むしろ過去に引きずられず全く新しいことやろうとしてるんじゃん?」

「ふうん……」

「ま、正直俺も昔の方が好き。重度のゼロセン被爆者だったからなあ。しかし弟君、ギター巧くなったよ」

「うーん……」

 私が気がかりなのは、弟がステージの端に神経質そうにかじりつき、すごく狭そうに弾いていたこと。その姿は、狭い回し車の中で背骨を反らしながら必死に回す、ハムスターを連想させた。

「すごく……馬鹿な感想で申し訳ないんだけど……」

「ん」

「なんか、あのバンド、仲良くなさそう」

「あーちょっと独裁者の気ありそうだね。いや、そういう感想大事だよ、大体当たってるし」

「ハア……大丈夫かな、弟……」

 スパイが私の髪をくしゃくしゃとなでた。

「本当君は、弟君のこと大好きだな。でも、あの、ベースの黒澤君、ちょっと喋ったことあるんだけどすごくいい奴だよ。安心しなよ」

「あーあの群を抜いてダサかったスカジャンの人? 全然アーバンじゃない人?」

「……うんまあ、服はともかくベースのセンスはすごいよ。リズム隊同士として、あの人はちょっと気になるんだよなあ……」

「ふうむ……」

「ま、だから蛇介が何かわがまま言い出しても黒澤君が丸くおさめてくれるから、安心しろって」

「うーん」

 センスの悪い人は信用出来なかった。

 しかし弟が黒木さんにアテられたのは、ファッションセンスだけではなかった。

 ある日の食卓で、弟は、やはりひょうひょうと、こう言った。

「俺大学辞めるわ。んで、黒木さんと一緒にライヴハウスのブッキングやりながら、バンドやるわ」

 両親は今度こそは聞き流さなかった。押し入れの中に眠る飽きっぽさの痕跡たちを、ひとつずつ取り出し、諭し、捻じ伏せようとした。お前の夢は、ポケモンマスターとかスポーツ選手、小さな頃からころころ変わった。また何か言い出したに過ぎない、大学を辞めるのは、一時の目移りの代償には大き過ぎる、と。

 しかし私だけが分かっていた。彼にとって音楽は、押し入れの中の他のやりかけの夢と一緒に出来ないただひとつのものなのだと。

 でもだからと言って、今すぐ大学を辞めて黒木さんのツテでライヴハウスに勤めるのが、良いとは正直思えなかった。そうやって焦って音楽の世界に身を置くのが、得策なのか分からないし、大学を辞めたら……弟が実は頭がいいと言っても、誰も信じてくれないじゃないか。

「ああ親っていうのはみんな『やりたいことをやれ』と言って、いざやろうとしたら全力で止めるよね。うちもそうだった」

 ベッドの上でタバコをくゆらせながら、スパイは言った。バンドマンにしては真面目できちんとした彼の、寝煙草は唯一の悪行だった。

 弟と親はペンディング状態、家の雰囲気が悪く帰りにくくなった私は、仕事場にも近い彼の家に入り浸ることが多くなった。会社の先輩の架空の「カミジョウさん」なる人物を作り、その人と急に親密になり泊まらせてもらっている、というのが親への説明。

「うちの親父はいつも『本当にやりたいことをやれ。俺の兄貴は働きづめの末四十で死んだ。あんなの不幸だ』と言っていた癖に、俺が高校出てバンドやりたいって言ったら『大学は出ろ』っていきなり言って」

「え……意外」

 彼を自分を似た人間だと思っていた私は、優等生のままスムーズに大学まで進んだと思い込んでいた。高卒でバンドをやろうとして親とケンカする人間とは思っていなかった。

「その時は音楽のフィールドへ情熱が傾いていたんだよ。昔から頭使うことも好きだったけど、たまたまそういうタイミングだった。……でもまあ、なんで大学行かなきゃいけないんだよ、やりたいことやれって言ったのお前だろって突っかかったら、『お前が賢いからだ』って」

 スパイは沢山煙を吐いた、横顔を隠す程に。

「『大学は出ろ、持てる武器は全て持て。自由っていうのは、相手のルールを無視することじゃない。相手のルールにのっとって、かつ最小限の力で相手をいなしてこそ、自分のルールで生きていける。相手とは世間だ、無視できるほどちゃちな相手じゃない。でも、学歴という武器を使わずしても携えているだけで、驚く程簡単にいなせるから』」

 マンガに出てくる老師のような声真似で、彼が言った。私はくすくす笑いながら、いい父だと思った。

「で、こうも言ったね。『本当に賢いかより、初対面の相手に賢いと思われることの方がずっと有効だ』と。お前はプライドが高いだろう、いくら自分で自分が賢いと分かっていても、傍から無学と見下されるのに耐えられないだろう、耐えられる人間もいるんだが、お前は他者の評価を鏡のように映すから、見下され続けて、本当に見下されるべき人間になってしまうかもしれない。お前の賢さなら、学歴は余力でとれる。大学教授の親父が言うんだ、安心しろ、血を信じろ、って」

「うわー、お父さん大学の先生なの?!」

 私の中ではてっきり武道家か何かのイメージになっていたのだ。白ひげを蓄えたくましい上腕をあらわにしている頭の中の父の画像を慌てて消した。

「それで俺は、英語が一番得意だったから外国語で有名な大学に入って、今こうしてるよ。よかったよ、塾講は一応バイトだけど福利厚生も時給もいいし、俺は自分のプライドとやりたいこと秤にかけて、いい具合に自分をリスペクト出来る点に落ち着いてるよ。プライド高いとか、親の言う通り。……今翻訳の資格取ろうと思ってて」

「へえ!」

「ドラムスで駄目だったらそっちで生きてく。おれ、なんだかんだで勉強すごい好きだし、それも親の言うとおりだわ」

「……」

 私は前からとても不思議だったのだ。年上とはいえ、この人の落ち着きや、何でも見極めている冷静さ、目移りしない肝の据わり具合。親とケンカしたからなのかな、と、ふと思ってしまった。

「いいよなあ……私の親もこんなだったらな……」

と言って、でも反抗しない私は親とケンカも出来ないのだ、とすぐ気付いた。

「ジョーからも、弟に言ってやってよ、頼むよ」

「ああ……でも、高橋君は、見下されて見下されて、追い詰められて後が無くなってこそ本領を発揮するタイプかもしれないし……分からないよ。そんなことより俺は君が心配」

 そうやってスパイは私を抱きしめてくれる。要は私は「弟を心配する姉」をダシに自分の心配をしてほしいだけ。それがバレてるのにバレてないフリをして私を気遣ってくれるジョーが好き。私は、卑怯で、なかなか家に帰らない。架空のカミジョウさんと、親睦を深めるばかり。

 弟に何も出来ないし、何をする気も特に無い。

 

 弟と親は、とりあえず一年休学することで決着した。黒木さんの働いているライヴハウスに勤めるという話もそんなにすぐというわけでもなかったらしく、授業も無く暇な彼はルーティンの減った脳みそを悩むことに過剰稼働させて、更に塞ぎ込むようになった。追い詰められて本領を出すタイプなのか、違うのか。私と同じであれば、違うはずだった。

 弟を見ながら私は思う、私はどれだけ、大学の名で、社名で、救われているのだろうかと。大学生というエクスキューズを捨て、プライドと心の安定を肩書から受け取るのを辞めた弟。ただ音楽一本だけで立とうとして、いつも片足でフラフラしている。

 正直、黒木さんを恨んだ。安易にそそのかした悪役だった。



 クロビシンは歪んだ背骨の窮屈な生き物だ。弟は、一昔前のシルエットの、ビッグショルダーのジャケットに身を包み、弾きにくそうに手首をひねりながら、超絶技巧の速弾きを繰り出す。客が沸く。入りも増えている。ゼロセンと比べられてなのか、話題性なのか、よく分からないが……。学生団体が発行している、小さなインディーズバンド情報誌に、とりあげられたのを見たことがある。「今月のCDレビュー クロビシン 1st自主音源 『Daija』」。

 二〇〇六年、インディーズシーンに突如飛来しピンポイント爆撃を食らわせた「ゼロセン」――先進先鋭の熱狂的ヴィクティム(被爆者)を生んだのちに潔く解散した局所的伝説バンド「ゼロ番煎じ」のGt./Vox.黒木蛇介が、ほぼ無名の若手を集めて今年四月に結成したバンドが「クロビシン」。『我々は架空の生き物。新しい腕と足を得て、蛇は大蛇に変わる』野心的なメッセージが込められたタイトル曲『Daija』を筆頭に、ゼロセン時代とは一線を画す、泥臭さの抜けたタイトでストイックな音作りを……

 

 私はすぐに本を閉じた。「無名の若手」。「新しい腕と足」。タイトルも蛇だし、この人自分のことを好き過ぎる。メンバーのことを何だと思っているのだろう。

 私は独り暮らしを始めた。二年目で仕事も忙しくなり、片道一時間以上の通勤がきつくなったことが建前だが、実は弟から離れたかっただけ、カミジョウさんの近くにいたかっただけかもしれない。

 弟の悩みは、反実仮想の私の悩み。四分の一の私の悩み。一番を選ぶとなったら起こった、私自身の悩み。

「スランプの音楽屋を慰められるのは、音楽の神だけだから。自分の才能だけだから」

 そう言って私を正当化してくれる彼の元へ、逃げ込めば私も楽だった。新宿の仕事場から程近い、高円寺に引っ越したが、歩いて行ける彼の家にいることがほとんどで、私の新居はいつまでもピカピカの空虚だった。

 

 独り暮らしなのに一個ではなく三連のプリンを買ってしまう。一個しか欲しくないのに。無理して食べるか、諦めて捨てるかのどちらかなのに。三、という数字は、何なのだろう。

 新宿や高円寺なんてライヴハウスは沢山あるだろうから、帰りに寝ていけばいい。郊外の家に帰るより楽だし、どうせろくでもない飲み屋か街中で夜を明かすのなら。

 

 私はライヴハウスにも行かなくなったから、我々姉弟は全く出会わなくなった。こんなことは生まれて初めてだと思った。私は「生きる芸術」を生きた。そうして数カ月が過ぎた。



(7)

 クロビシンのベースの人が、息抜きのお遊びセッションに弟を誘ったというのを、彼から聞いた。

「やっぱあの人、いい人だよ。高橋君が元気無いから、風穴開けようとしてくれてるんじゃん? ま、一曲だけのネタバンドだけど。据え膳の企画イベントのオープニングアクト、出てみなよーって言ったら、俺、叩かせてもらえることになったんだよ」

「へ、へえ……弟とジョーが一緒にやるんだ……なんか不思議」

 クロビシンも相変わらず、小さな情報誌に出たり、ディスクオニオンのインディーズ館で月に数十枚ちびちび売れたりするだけだし、音楽で食うなんて言っておいて、よくお遊びする暇もあるものね、と、その時は斜めに思っていた。でもその据え膳企画のオープニングアクトを見たら、もうそんなものは吹き飛んだ。

「トルコマンチャーイーーー!」

 ベースの人が叫んで始まった、たった一曲の演奏は、世界の火薬庫に一度に火をつけたようなしっちゃかめっちゃかの音の弾幕だった。

「南下政策、極東進出、北方領土、西欧ルサンチマン!」

 彼らの歴史、彼らの音楽人生が一度にぶち当てられた、ものすごい密度と強度の大戦だった。ベースはカーキの軍物ロングコート、弟はヘンリーネックの白カットソーに七分丈のパンツに裸足、ドラムスは全身黒ずくめ、そしてバスドラをロシア国旗で覆っている。

「ベース、皇帝。ギター、ハンス。ドラムス、スパイ。ロシアンガンジャ、ハラショー!」

 絶叫したベースはペンチで全ての弦を切り、楽器を放り投げてバーを飛び越えフロアに消えた。弟は広くなったステージを野生の動物のように駆け回り、獲物に食い込む爪のごとく、ネックを殺す勢いの速弾きで客を騒がせたのち、全ての弦を素手で掻き切り、退場した。ドラムスはバスドラを覆うロシア国旗を剥ぎ取り、フロアに投げ捨て退場した。

「THIS IS ロシアンガンジャ、ザッツオール!」

 皇帝が叫んでライトが落ちた。

 あっけにとられた空白ののち、決して多くはない客がありったけの喝采を飛ばした。もちろん私も。私は、ついに、弟のファンに、戻ったのだ。

 凱旋。



 少数の目撃者は各々、このバンドをこれっきりにしてはならないという使命感を背負った。吹聴し、尾ひれをつけ、彼ら自身がこのまま忘れ去ることが出来ないようにした。一番尽力したのが、一人の親族と一人の恋人にあたる、この私だと思う。

「一回ぽっきりなんて、勿体無いよ。また観たい。あんなに、心底楽しそうな弟を見たのは久しぶりだった。ジョーもすごく生き生きしてたよ?」

「確かに、良かった……、俺史上に残る良さだった……黒澤君、前から気になるベーシストだったけど……、うん、やっと、落ち着きたい相手が見つかったかもしれない。……あとは皇帝次第だな」

 私は安堵した。不安定な弟を、安定した彼の元に預けて安心したい、という私の政治的意図は、スパイには見抜かれていたのだろうか。

 それから間もなく、クロビシンが一枚の自主音源を残して解散した。理由は聞かなくとも分かった。目の前に世界地図を広げられたような、心地良い空白の気分。弟はそう言った。

 かくして期が満ちた。黒井豹はハンスに、黒澤龍彦は皇帝に、そしてカミジョウはスパイになったのだ。

 それ以来、ロシアンガンジャは、インディーズロックシーンの一番勾配の急な狭い坂道、それゆえ上る人の少ない道を、破竹の勢いで上り続けているのだ。皇帝(ハラ)万歳(ショー)。



(8)

 一度だけ、「スパイ」と喧嘩したことがある。私が弟を愛しすぎるのか、スパイが私を愛さなすぎるのか。いや、彼は愛さな過ぎるのではない。彼の愛は穏やか過ぎて、一回転した無関心と等しい。安っぽいアクションを伴わない、忍び込むような愛だから、私が気付けなかっただけなのだ。

 弟は少年の活力を取り戻していた。ポケモンカードのキラカードを引き当てた時、初めてギターを手に入れた時と同じ目の輝きを宿していた。黒木さんの影響下から脱却した彼は、更に服の好みが変わった。小綺麗なハイファッションをやめて、ルンペンのような、麻袋のような格好を好んだ。「ビームスで服買うバンドマン大嫌い」「服に金かける奴頭足りない」と暴言を吐き、古着屋しか行かなくなった。が、元のセンスが良いため、サイジングや合わせの絶妙さで、上等なおしゃれに見えた。

 そのこだわりのサイジングのために、痩せぎすの弟に合わせてミシンをかけるのは、やはり私だった。その服でステージに立つ弟、それを観る私。そのバランスを少しだけ踏み違えてしまったから、火種が爆発してしまったのだ。

 私の仕事はいよいよ忙しくなっていた。初めてスパイに会ったあの日に失敗したプレゼンを、今度は勝ち取り、ある学術研究所のシステム開発を担当することになったのだ。弟のファンであること、自分のプライドを保てる程度にきちんと仕事をすること、どちらも大事だったから、前後の日に終電近くまで残業して、大事なライヴの日は早く上がって観に行った。最前列には男の子が沢山いて、ノるし踊るしヤジは飛ぶしだが、スーツの私も臆せず並んだ。何しろファン歴は私が一番長いのだから。

 フロアでの弟はいつも煙草臭くて酔っ払っていて、すっかり立派なバンドマンだが、目の輝きが少年なので私は安心して話しかけられた。

「飲めよー!」

 と言って手に持っていたウォッカの瓶を無理矢理口に押しつけられる。

「依子さん、今度スプートニクと対バンするんだよ、元ショスタコービッチのダイゴさんだよ、この日はアツいよ、絶対来なよ」

「ああー、その日はシステム移行の日だから、夜中まで帰れないな……」

「えーじゃあ、10日は? ロシアンガンジャの初企画だよ、『農奴に関する布告vol.1』。皇帝が揃えたの、すごい良い対バンだよ、依子さんの好きなニセモノリカちゃんも出るし。っていうかぶっちゃけ、この日赤出たら俺たちがかぶるの、だから職場の人全員引っ張って来て、お願い!」

「えーその日も無理だよ、部長が決めた送別会の日、絶対抜けられないよー」

「けっ、冷たいな」

 弟は私に背を向けてドリンクを取りに行こうとして、振り向いて更に言い捨てた。

「俺のお陰で彼氏も出来たのにさあ」

 ウォッカが喉を灼く速度を追いかけて、全身の血がざっと沸騰した。

「何?! 何なの?! 関係無いし! 何が『お陰』なわけ?! そっちこそハミガキとか勝手に使うし、勝手にいろいろ食べるし、今日とか、夜中に起こして、うるさいし……!」

 たたみかけてからハッと口をつぐんだ。興奮が口元で滞って、顔が赤いんだか白いんだか分らなかった。

「関係無いって、そっちこそそんなの関係無いじゃん」

 そう、関係無いことを言った。今日は疲れているのだ。昨日終電近くまで残業して、夜中に弟がドアを叩いたから。

「帰れよ」

「帰るよ」

 傍から見たら、彼氏彼女の喧嘩にしか聞こえないと思ったら更にどうしようもなかった。

 ただのサイフですよ。昔、本当に彼女に間違えられた時に弟が吐いた台詞が頭をよぎる。寝不足の頭は短絡思考にショートし、みじめな水分が漏れ出してくる。

 泣いている私と廊下でかちあって、スパイが黙って一緒に帰ってくれた。

 

 私は終始無言だった。なぜ泣いているかもわからぬ彼はとりあえず部屋に入れ、ご飯を作って、お風呂に入らせ、寝かせてくれた。

「黒澤って……、本当にすごい奴だよ。ベースがすごいだけじゃなくて、もう、人間として溢れ出すもの全てがすごい。メシ食ってても、ダラダラだべってても、言うこと面白いしすぐ何か思いつく。新曲が出来過ぎて困ってるくらいだもん。俺はあの人とやると決めて本当に良かった。心底尊敬してるよ。……あっそう言えば最近彼女が出来たらしくて、その彼女がインスピレーションの源らしいよ。音楽屋が一番欲しいのは才能で、音楽の神で、ミューズで。ミューズと付き合えちゃうって、ちょっとすごいよなあ。ある意味理想だもん」

 彼は最近皇帝の話ばかりしている。その時は私を気遣って、私の泣く理由に触れないで、明るい話をしようとしてくれただけなのだが、その時はそんなこと分かる余裕は無かった。

「ジョーも、そういう子が良かった……?」

「え? いや?」

「ジョーって、何なの? 私の何が好きなの? みんな、何なの? 弟も、私のこと何だと思ってるの?」

 無言で無理矢理堰き止めていたものが、整理されぬまま飛び出してきて、もうキリが無かった。

「私にも生活があって、毎日ちゃんと働いて、それで、あんたたちみたいなの、お金落として、お世話して……。それで、仕事で行けないのに、『冷たい』ってバカにされて……、それで、あんたたち遊んでばっか、で、才能がすごいとか、何とかって、ぬるま湯じゃん。……才能ってそんなにすごいわけ? 何なの? 一体?」

「高橋に『冷たい』って言われたの……?」

 私はこくりと頷いた。激しく泣きじゃくっていて、もはや喋ることが出来なかった。

「それは、高橋がおかしい。調子に乗ってる。依子が仕事忙しいのに時間作ってライヴ来てくれるのに。依子、ちゃんと働くって、偉いよ」

 彼は涙で濡れた私の頬を両手で挟んで、正面を向かせた。

「ちゃんと毎朝七時に起きて、ちゃんとした服着て、化粧して、毎朝九時に会社に着く。嫌なことがあってもサボらない。そのことの方がよっぽど偉い。そうやってちゃんと生きてる人のお金を貰って生きようとしてる人間が、それを軽蔑するなんて、おかしい。音楽で食うとか言う資格無い。普通の人そんなにライヴハウス行けないもん。あいつ、依子に甘えてるんだよ。俺は、依子の、ちゃんとしてるところ好きだよ。真面目にやりながら時間作って、ライヴ来てくれる。無理はするけど羽目を外さないところ、とか、危ういけど本当にはコケないところとか、好き」

 涙で濡れてぼおっとする視界で強制的に彼の顔を見つめさせられる。この顔を、何度も見ているこの顔を、私は覚えられなかった。あらゆる人の平均をとると、非常に整った無個性な顔になるという、その顔のようなものだと思っていた。いつも思い出せない、いつも会ってからああこういう顔だったと思い出す、顔の上で、彼の言葉がつるつると滑っていった。初めてだった。

「違う……違う……」

 そういう方法で認めて欲しいんじゃない。そんな、誰でも出来ることをちゃんと出来るからって、そんなことで褒められたくなんかない。そんなの全然偉くない。

「何が、違うの?」

「好きって言ってよ……」

「好きだよ、前からずっと」

「違う、違う……」

 自分でも何を言っているのか分からなった。さっきのは嘘。本当は、才能を、認めて欲しいのだ。皇帝の彼女の、その女の子みたいに。私だって、試したいのだ、指紋以外の自分の個性を。小さい頃の文集、将来の夢。小説家、音楽家、アーティスト、画家? いろんな大人が私を褒めそやす、そのどれにも試さずに終わった。

 要は、私は、ひがんでるだけ。

 そして、歯をくいしばるほど、憧れているのだ。

 泣きじゃくったまま眠ってしまい、次に起きたのは午前三時だった。彼の眠りは浅い。私が少しでも動くと起きる。彼は静かな動作でベッドサイドの煙草に火を点けた。ライターのザリッという音だけが、まどろむ闇にちょっとの切り傷をつけた。

「……前から思ってたんだけど、ジョーがタバコ吸うの、似合わない」

「そうかな」

「そうだよ」

 彼は無味無臭のイメージだ。

「第一『スパイ』は煙草を吸わないよ、匂いでバレる」

「ソリッド・スネークは吸ってたよ」

「誰それ」

「ゲームのキャラ」

「知らない」

「……依子は吸わないイメージで、吸わないね」

「うん、自分じゃ吸えないんだ、体質的に。でも副流煙が好き」

「変だね」

「そう、変なの……弟は高校生の時から吸っていたっけ」

 煙の行く先を見ていると、リフが浮かぶとか何とか。親に隠れてよく夜中にベランダで吸っていた。自分の前では吸ってくれた。自分に秘密を分け与えてくれた、弟と、秘密を共有する楽しみだけで充分で、私は一度も口にしたことは無かった。

 今、スパイの手から煙草を盗む。吸い込む。咳込む。肺に千匹の虫が入り込んだよう。

「やっぱり無理だった……」

 私が吸っても、アンチテーゼにしかならない。身につけることは出来ない。隣りから流れる副流煙を、愛することしか出来ない。

「お前、前から思ってたけど……………………本当は弟と付き合いたくて、俺は二番目だろ」

「……………………そっちこそ、本当は皇帝と付き合いたくて、私は二番目のくせに」

「ハハ」

「はは」

「俺に何言われても泣かないもんな」

「泣かす気も無いくせに」

 激しくドアが叩かれた。おもむろに立ち上がったスパイの手で扉が開き、長方形に闇が押しのけられる。

「いやーいやー、カミジョーハラショー! 酔った酔った、ラリった、トんだ。あ、依子さんもこっち来てたんだ、邪魔したねー」

 弟だった。最悪のタイミングか。最高のタイミングか。彼は弟をどんな目で見つめたのだろう。

「なんか、ひでえこと言った気がする、ごめんね依子さん。俺が悪かった。俺が好き勝手出来るのも、依子さんのお陰だもんな」

 それは、燃えさかる炎を消そうとして、実は油を注ぐ行為だった。目の裏の奥の方に追いやられていた遠い涙が、ツーンと舞い戻って来た。喉を押し上げて来た嗚咽、二十三年間苦もなく押しとどめて来た言葉が、生まれて初めて、飛び出しそうになった。

 弟ばかり、ずるい。



(9)

 いつだってライヴハウスに行く前は、罪人みたいな気持なのだ。なぜ、また、安易な楽しみに、楽しいと分かり切っている場所にのこのこ来るのだろう。馬鹿の一つ覚えで進歩が無い。新しい刺激を探そうとせず、同じところを訪れる私は快楽に怠惰だ。勤勉で、貪欲じゃなきゃ、新しい人間になんかなれやしない。自責。自己嫌悪。だけどライヴハウスの厚い扉を押し開ければそんなことは二拍で忘れる。

「『ロックバンドに出来ることなんて! ロックバンドに出来ることなんて! 白い粉、要らねえよ! シーツの上が発射基地!』」

 私の心臓は身体より早く最前列に飛び込み、拍と脈は一瞬で同期し愛しさに狂う。遅れて来た手足は絡みながらもなんとか追いつき、心臓が柵の向こうに飛び越えてしまわないよう、必死で踏ん張り押し込めている。

 一番の幸せが、自分で作ったものではなくて、他人が作って手渡してくるものだというのが、耐え難く悔しい。でもこの時間が紛れも無く、人生で一番楽しい。一番集中し、冴え渡り、空っぽで、かつ最も充実している。

「もっとギターを弾かせて下さい! もっとギターを弾かせて下さい!」

 私のヒーローが暴れている。もっと空気を欲しがっている。あの場で生きている。私よりずっと濃く、危険に、あの場に生きている。

 いつまでもヒーローでいてくれよ。私は二十年間、あんたのファンなんだ。

 誰にも負けない、全部見届けてやる。涙が出る。私は一生この柵を越えない。臆病者。安全な場に身を置いて、遠いあの人へ愛を注ぐしかない。本当に欲しいものを、皆の前で裸で欲しがる、魂を晒す、危険な行為。

 私は一生保険をかけ続け、満期になって死ぬだろう。

 ナレーター。私には永遠にそのポジションしか無いのだ。

2010年 / 29,446字(89枚)

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