ロシアンガンジャ 1
摩擦熱

 お馴染みのあの音だ。床一枚隔てても、私の身体の中心を正確に突き通してくる、あの重低音。奥までずうんと貫かれて、溶けてしまった自分が子宮からじんわりと、流れ出る気がした。懐かしさと、いやらしい連想。

 このハコに来るのは半年ぶりだろうか。

 今私達は、新宿の小さなライヴハウスのすぐ上の階にあるファミレスで、開演までの時間潰しをしているところだった。リハの音が階下から轟く、雑居ビルの雑な設計。インディーズロックの情報交換で尽きぬおしゃべりに酷使される喉を潤すため、ドリンクバーの安ティーバッグのガラが無造作にソーサーに積まれ、もはや小さなゴミ捨て場のようだ。そんな、あまりにも懐かしい、安っぽくて、雑多な場所。

 彼女の中で今最も熱いバンド「クスリックス」についてひとしきり語り尽くしたところで、梨沙が言った。

「ねえねえなんで突然、ロシアンガンジャのライブ観ようって誘ってきたの? しかもいきなりツーマンって!」

「うーん、まあ……観たくなっちゃったんだよね」

「突然?」

「うん、突然」

「ふうん……?」

 梨沙は納得のいかない様子で私の目を覗き込んでいた。私はその目を避けるため、紅茶とは名ばかりの、味も香りもしない茶色いお湯をすすって「アールグレイなんて嘘っぱちだねこれ」と呟いた。目を上げると、梨沙の目の疑問の色はさらに濃くなっていた。

「玲奈が突然誘ってくるなんて変だなーと思ったんだけどな。別にいいけどさ。いっつも、計画的じゃん、玲奈って。前から好きだったの、ロシアンガンジャ?」

「好きだった。前はしょっちゅう行ってたんだけど、この半年、全然行かなかった」

「なんでなんで? 休止したの? メンバー変わってつまんなくなった?」

「違うけどさ……」

「なのに突然半年も行かなくなるなんて、玲奈らしくなくない?」

「そうかな」

「そうだよ」

 クスリックスの話題の時にはあんなにハイテンションだった私が突然無口になって、梨沙は明らかにおかしいと思っているようだった。

「本当に好きなものなんて滅多に見つからない、だから見つけたら絶対なくさないようにしないと、っていうのが玲奈の口癖じゃん?」

 なくさないようにした結果が、これだったんだけどね。

 再び、階下からベースの音が響いた。懐かしのあのリフ。彼の弦を弾く指、その同じ指が私の子宮を引っ掻いた感触も、一挙にフラッシュバックして、身体が崩れるかと思った。崩れて、もう、口から出てしまうと思った。というか、結局言いたかったのだ。梨沙はおしゃべりなお転婆だけれど、人の秘密は守れる子だ。

「言うつもりなかったんだけどさ……私、ロシアンガンジャのメンバーと、付き合ってたんだよ」

「うそ!」

 私はちらっと腕時計を見た。開演まであと一時間ある。

 どこから話そうかと逡巡する私の口が開くのをじっと待つ梨沙の瞳が、明るい好奇心だけを浮かべているので、私は安心して話そうと思った。やっぱりこの子が好きだな、私は。

「初めてロシアンガンジャを観たのが九ヶ月前、やっぱりこの真下のライヴハウスだったよ」

 「新宿caution」は当時オープン二年目の若いハコで、今より少し、壁を埋め尽くすステッカーとフライヤーが少なかった。ドアの周りをぐるっと囲ってある黄色と黒のテープとか、交通標識型の馬鹿でかい三角の「caution」看板は、もちろんあったよ。

 私は当時大学三年生で、文学部に進んだばかりだった。でもあんまり通わず、好きな授業だけつまみ食いして、あとはサボっていた。文学部に行っても文学を教えてくれるわけではなくて、時代背景やら作者の暮らしぶりやらを分析するっていう名のもとに、小説をズタズタにして、魅力無いものにしてしまっている気がして。私は図書館で小説を読み漁って、夜はライヴハウスに通う毎日だった。あの頃は本当に、毎日のように通ってた。お客さんでも、出演者でも、顔見知りの人が何人も出来て、酒飲みに行ったり、また一緒にライヴを観たり。大学の子とつるむよりその方が楽しかった。私が圧倒的な最年少で、皆、遊び方の分かる面白い大人だったからね。 

 その日は別な対バンが目的だったんだと思う。cautionなんて、百五十も入ればパンパンの本当に小さなハコで、しかもまさに「caution」が必要な、アングラでコアなロックバンドばかり集めていたから、どうせ今日も客は少ないんだろう。そう思って扉を開けたらやっぱりそうだった。五十人かそこらだったと思う。

 でもいきなり「ボリシェビキー!!」という怒号が聞こえて、ビビる暇も無く突然始まったんだ。アタックの瞬間に、膝の裏から脊髄抜けて頭の天辺まで、電気が突き抜けたかと思った。私は、これは大変だと思って、速攻で最前列へ進出したんだ。

 後方はスカスカなのに、最前列は男の人たちが押し寄せ騒いで異様な盛り上がりを見せていた。彼らの肩の間からステージを覗くと、棹の二人が見えた。その後ろ中央にドラムス。最前列で、はじめの一音を食らった時、胴体丸ごと穴が空いたんじゃないかと思った。三人の音が完璧なタイミングで、一度に飛んで来るから、爆撃みたいなんだ、音が。死んだかと思った。あまりにも致命的な打撃が、もう無数に乱れ飛んできて、一曲終わったらもう身体中穴だらけで何回死んだか分からなかった。動けなくなってしまった。でも間髪入れずに二曲目、三曲目と来て、もうヘロヘロのボロ雑巾みたいになってバーにひっかかって、でも目だけがやけに元気で、ギョロギョロと、音の出る方向を機敏に追いかけてた。一音たりとも逃すまい、と必死でね。……極度に集中力が冴え渡っていたんだと思う。周りからものすごいヤジも飛ぶしノるし踊るし、ぶつかるし、なのに、自分とステージだけしかこの世に無いような、自分が直接音楽と接続しているような、身体に管を通して直接音をぶち込まれているような、錯覚に陥っていた。強烈なリスナー体験だよ。もう、幸せ! というか、あらゆる感情がカウンターストップしたような極限でさ。死んでいいと思ったよ。今地震が来て、この多幸感のまま地面に埋まれば最高だと思ったね、後にも先にもこんなの無かった。

 それで、また、ああ、やっちゃったなあ、って思ったんだ。幸せだけど、悲しかった。悔しかった。また、死ぬほど好きなものが増えてしまった。どれだけ、また、愛を搾られるんだろう、って。

 あの時のステージの記憶って今でも異様に鮮明なんだけど、特にベースヴォーカルの人が印象的だった。とにかく、心底ベースが好きなんだと思った。子供が、ずっと欲しかったオモチャを買い与えられて、嬉しくて振り回しまくってるみたいだった。もう、この人からベースをとったら死んじゃうんじゃないかと思ったね。いやむしろ、ベースを持って生まれてきたんじゃないか、胎盤の代わりにベースとくっついてたんじゃないか、生まれる前から、ってくらい。この人も、きっと今地震で死ねば、最高に幸せだろうと思ったね、私と一緒にさ。

  ……そんなんだったから、続けざまにやった三曲が終わった時はハッとしたよ。立ったまま浅い眠りについていて、今目覚めたのかと思った。……それで、冷静になってよく見ると前列にいるのは私以外全員男の人ばかりで、しかもヤジとかステージとのやりとりなんかと見ていると、みんなバンドマン同士の知り合いのようで、一見の私は明らかに浮いていた。やっちゃったと思ったね。他の対バン見に来た人は後列にいて、フロアが二層化していたんだ、まあよくあるよね。

 でもMCを聞いてもっと驚いた。

「皇帝です。農奴ども、ペレストロイカ、してるかー?!」

 ベースヴォーカルの彼が叫ぶと、前列軍から「皇帝ー!」っていうヤジとか嘲笑とかスカスカの拍手が起きた。この人達、全部ロシア設定なんだ!

「農奴に告ぐ。次の暴動は、8月15日渋谷サイバネ、っていうかモスクワサイバネ。その次が8月19日仙台studio cue、ていうかレニングラードstudio cue。遠征します。凱旋パーティが8月21日の新宿ニルファナでオールナイト……」

 皇帝がライヴ告知している間、それを無視して「ハンスー!」「ハンス抱いてー!」みたいなふざけた男声が頻繁に飛んだ。ハンガーみたいな薄っぺらい肩に、伸びきったボートネックをひっかけて、擦れたジーパンに裸足のギタリスト。本当にハンスっぽい。無口な彼がチューニングがてら先ほどの曲のリフを爪弾いただけで、前列軍が勝手に盛り上がってしまった。確かにその声援に足るほど、彼のギターは、私が生で見たギタリストで一番なんじゃってくらい、巧かった。左肩だけが異様に擦り切れたTシャツが、練習量を物語ってた。

「農奴、演説中だって。今日はちょっと、愛国心が足りないんじゃないか……?」

「皇帝ー!」

「皇帝も好きだよー!」

 なんだろうこの、コールアンドレスポンスとも違う、高校の文化祭みたいな内輪ノリ。でもなんにせよ、ロシアンガンジャが愛されているのはよく分かった。私もすっかり惚れてたよ。演奏巧すぎるのに、このぬかりないお馬鹿設定、最高じゃん。

「農奴ども、ウォッカ、足りてるか? スミノフ、足りてるか? もっとペレストロイカして……」

「皇帝、チャックがグラスノスチしてるよ」

 無口なハンスがボソッと言って、前列全員、私も、大爆笑した。大笑いしてから、あ、大笑いしてるの前列だけじゃん、女の自分の笑い声だけ、野太い男の声から妙に浮いてしまったのに気づいて、ヤバいなって思ったら、チャックをあげた皇帝と目が合った。

「ありがとう、ニンフェット」

 またスカスカの拍手と笑いが起こった。みんなちらちらと私を見ていた。何だニンフェットって。多分ロシア語なんだろうって思ったけど、とにかくまた、やっちゃったなあ、と思った。

 そうそう皇帝っていつもカーキ色のロングコートに編み上げ軍ブーツなんだ。上背があるから、本当に皇帝っぽいんだよ、ちょっと外国人顔だしね。あの時は夏で、cautionはライトもきついから、最後の曲の時なんか袖から水がバーって流れ出るくらい汗かいてたけど、ステージが終わるまで、脱がなかった。

 ステージが終わった後に皇帝が話しかけてきた。さすがにコートはもう脱いでたけど、ステージ降りても見事な皇帝っぷりだった。

「ありがとう。初めてとは思えない農奴っぷりだったよ」

 いきなり「農奴」扱いされてびっくりしたけど、これは親しみを込めた表現なんだって、すぐ分かった。

「あまりにも格好良くて、最前列に混じっちゃいました」

「あーうるさくて悪かったね、同業者の男どもが……」

「あれって、バンドマン仲間なんですか?」

「そうそう。いっつもあれが盛り上がり過ぎちゃって、後ろのお客さんが疎外感かんじてないか、心配なんだけど」

「国土が広いと、統治が大変ですね」

「そうなんだよ! まさに荒れ果てた永久凍土だよ、後列。今日の下ネタに凍りついてないか若干不安」

「大丈夫ですよ、最高におもしろかったから……!」 

 何、この、徹頭徹尾のロシアネタ。皇帝、面白すぎる! って思ったね。気さくで話しやすい人で、初めて話すのに全然緊張しなかった。

「だから、今日みたいに、初めて観に来た人がノってくれると、嬉しいわけ」

「演奏すっごい巧いし、格好良いから、絶対みんな気に入りますよ!」

 それから私達は意気投合して、他の対バンも観ずにフロアの外で立ち話してた。皇帝は、「君のことは見たことがある」としきりに言ってたけれど、私はロシアンガンジャ観るの初めてだし、「じゃあお客さん同士の時にすれ違ったんですかね」って言った。途中皇帝がたまたまいなかった時にハンスが通りがかって、ニンフェットっていうのは皇帝が気に入った女の子のことをそう呼ぶんだって教えてくれた。そうか、ナボコフの「ロリータ」に出てくるニンフェット。理想の女の子の総称。だから皇帝が戻ってきた時聞いたんだ。「皇帝ロリコンなんですか」って。

「違う。だったら君のことをニンフェットなんて呼ばない」

 まあ当時あたし既に二十だったからね。

「ナボコフが好きなだけ……というか君、ロシア文学も分かるなんて、相当な摩擦力」

「何ですかその、摩擦力って」

「俺を滑らせない力」

「アハハハ! なるほどね!」

「永久凍土は摩擦力ゼロの客のことね」

「いや、ニンフェットは滑ってる思いますよ……」

 本当、ロシアだなー。皇帝とあたしはひとしきり笑って、それから急にまじめな顔して皇帝が言った。

「君以外をもうニンフェットと呼ばないよ」

 それが告白なんて、ありえないよね。永久凍土だろうがウラル山脈だろうが、滑りまくりだよ。

 その時は、なんだかもう、本当に、やっちゃったなー、って、思ったね。……私達が聞くような汚いロックって女の客の少ない世界だけど、バンドマンとお客が付き合う話とかも、たまーに聞いたんだ。でも私はつき合いたいと思ったこともなかったし、そういうことをすると一部の人に軽蔑されるっていうのも知ってた。音楽が好きっていうのと、その音楽を作る人が好きっていうのは違うし、ただの客でいる方が音楽を好きでいられるのかもしれないし。彼氏がバンドマンだっていう女の人が、こう言ってた。「バンドマン ステージ降りたら ただの人」。

 だから私は皇帝にこう言ったんだ。

「絶対に皇帝を降りないで」

 本当に好きなもの、偶然めぐりあえたロシアンガンジャを、つまらない理由で手放すなんて絶対に嫌だった。もちろん、皇帝も、皇帝のベースのことも。

 そう、だから、初めて会ったその日に、つき合うことになっちゃったんだよ。その後は、ロシアンガンジャの三人と私で、歌舞伎町でラーメン食べて帰ったよ。

 あ、ドラムスの人? スパイって言うんだ。一言も喋らなかったね。とにかく目立たないし、いつも黒いTシャツを着てるよ。

 皇帝は皇帝って言っても日本人だし、ペテログラードじゃなくて高円寺に住んでた。歳は二十四で、私と同じく大学は文学部で、サークルでバンドを始めて、卒業した後もバイトしながらバンド活動を続けている、っていう、典型的なバンドマンだった。バイトは高円寺の裏・無頼屋っていう変わった名前のライヴハウスでドリンカーをやっていた。ただ、少し前に、ロシアンガンジャとかけもちしてたバンドが解散して時間が出来たからって、パスタ屋のバイトも始めていた。ドリンカーだと、ライヴのやっている夜しか入れないのと、まかない目あてとで。キッチン担当で、しょっちゅう手に火傷してたよ、ベーシストの癖にさ。

 その解散した「クロビシン」というバンドは結構人気あったらしく、例の熱烈農奴達は、そのバンドのコアな客とか、そのバンドつながりの同業者が流れてきたものらしい。なんか納得したよ。ロシアンガンジャは、そもそも息抜きで始めた期間限定の企画バンドで、でも遊びの割にはメンバーの相性が異様に良かったから続けているらしいけれど、だから、あんなにぶっ飛んだ設定らしいよ。

 とにかく、バンド活動って本当にお金がかかるって知ったよ。スタジオ代、機材とか……ロシアンガンジャは同業者とか音楽通にはすごく評価されていたけれど、その時は結成してやっと半年も経った頃だったし、まだまだ知名度が低かったから、ライヴハウスのチケットノルマも払わないといけなかった。要は、ライヴをやるたびお金が減るんだ。まあ、この界隈のバンドって大体がそうらしいけど……。

 だからバイトを掛け持ちしても全然追いつかないらしく、皇帝はいっつも「金が無い金が無い」って言ってた。でも全然みじめじゃなかったな。まあキツいバイトも「腕が鍛えられていい」って言うくらいの人だからね。金貸して、って言おうものなら即刻別れようって思ってたけど、最後までそれは無かった。私は貢ぐファンじゃないし、皇帝はヒモじゃない。バンドマンと客がつき合うなんて、ただでさえ周りからそういう目で見られやすい。互いのプライドを守るために、潔癖かというくらいにけじめをつける必要があった。

 そうそう皇帝のことを皇帝って呼んでたの。皇帝は私のこと、ニンフとかニンフェットとか呼んでた。まあ私名字が新府だから、殆ど変わらないけど。

 不自然……だよね。でも私達は不自然なものが好きだった。あんな、自然な旋律も自然な拍子も持たない、普通に考えたら全然美しくない、不快って言ってもいいくらいの音楽を好きな者同士だからね。でも私達は、自然なものだって所詮不自然さを隠していることを知っていたからさ。私達は好きな音楽も同じだけど、嫌いな音楽も一緒だった。

「アメガジって、観たことあるか」

「アメリカンガジェットだっけ? 一回だけあるけどつまんなくて途中で出ちゃった」

「つまんないよな!!」

「つまんないよね!!」

「本当、どこにでもある、ただのJpopって感じでさー何であんなに売れちゃってるのか分からない」

「どっかからパクったのを貼りあわせただけの本当パンチ無い感じだよねメロとかコードとか」

「歌詞もひどい。当たり障りない、響きの良い言葉を適当にツギハギしただけとしか思えない」

「思い出とか彼方とか君とか記憶とか愛だの恋だのね!」

「思い出の彼方 記憶の中の君はもういない、とかね!」

「本当の自分とか、ありのままの今の君でいいよ、みたいなね!」

「本当とかありのままとか、何言ってるのか分かんない。結局人間、誰かに会う時は必ず何かを被るのに」

「そう、素のままの人間なんて存在しないのに、自然体ぶってる奴は信用出来ないね」

「実際あいつら自体が全然、ありのままじゃないんだよ。一回、大昔に対バンしたんだけど、楽屋で反省会したり必死にアンケート配ったり、ブッカーの人にアドヴァイスを求めまくったり、俺らにも意見を求めてきてさ。とにかくガムシャラで、売れてー!! って叫んでたよ。それが今はシレッと白シャツなんか着て、白背景で、爽やかなアー写撮ってさ、自然体ですーって、感じでさ。休日は公園を散歩して歌詞のイメージを考えます、とかさ、飾らないさりげないファッションが好きです、とかさ。どの口が! バンドTとかフェスTばっか着てた癖に!」

「皇帝、随分アメリカンガジェットに詳しいね……」

「ん、アメリカは仮想敵国だからな」

「でもなんで、自然体ぶる人が人気なんだろう」

「愚民が多いからだ」

「本当っぽい嘘より、嘘っぽい嘘の方が分かりやすくていいよ。皇帝みたいに」

「よし、反米の曲を作ろう」

 それで本当に新曲を作ったからすごいよ。「ビッグファットチーズバーガー」。初めてライヴで聴いた時は大爆笑だったな。「ちゃんと野菜も食べてるよ、レタスとピクルス」とか、「肉色のテキサス、芋色のアイダホ」とか、聞き取れた時は。

 あとは怒濤のように英語を叫び続けていたから、なんて言っているか分からなくて、あとから聞いたんだけど、

「nothing! nothing in the middle! but potato!」

「nothing! nothing in the middle! but beef!」

「nothing! nothing in the middle! of! you!」

って連呼してたらしい。普通に聞いたらハンバーガーばっかり食べてると馬鹿になるよ、っていう、アンチアメリカな曲にしか聞こえないのが素晴らしいよね。でも実は、イケメン爽やか売れ線バンドに対する皇帝のルサンチマンが生んだ、呪いみたいな曲だからね。

 皇帝はバンドかスタジオかライヴかで忙しい人だったし、お金も無いから、デートらしいデートはしなかったな。会う時は、バイトとライヴの間にご飯を食べるか、私がロシアンガンジャのライヴに行くのが多かった。皇帝はライヴハウスではスミノフをガブガブ飲んでたね。キャラに違わず酒が異様に強かった。ロシアンガンジャは全員強かった。私はハンスともよく話した。飲むとすごく楽しいんだ、「皇帝はベッドの中でも皇帝なの?」なんて、シレッと聞いてくる。その時はまだ寝てなかったから、「国家機密です」って答えたけど。……ハンスの方が普通に見たら格好良いし、モテるだろうね。滑らないしさ。

 そうだ、一度だけ、休みの日にちゃんと一日遊んだことがあったよ。……って言っても、皇帝の楽器屋巡りに、私が同行しただけな気もするけど。お茶の水で待ち合わせしたんだけど、皇帝が行く店行く店、店長と顔馴染みだからびっくりしたよ。中にはべース専門の店とか、あと看板の無い、倉庫みたいな、業者しか来ないだろうっていう店もあった。店長とべちゃくちゃ喋りながら、あ、それ、新しく入ったんだよ、へえちょっと試させてよ、って感じで、やや迷惑だろうっていう量のベースを選んで、試奏ブースに持っていくんだ。片っ端から試奏する皇帝を見ながら、ああなんだか本当に不思議だな、と思った。炎天下の中、楽器屋を連れ回されて延々放置されたら、普通の女の子はキレるよ。でも、私はすごく幸せだった。それは大好きなバンドのベーシストが、ステージを降りた顔を覗ける、とか、そういう喜びじゃなくて。だって皇帝はステージを降りない。そもそもステージを降りた、ただの人に、私は興味が無い。

 よく、高校生青春スポーツモノのテレビドラマをやった後に、「収録の裏の本当の青春!」とか言って、メイキングの特番をやるじゃん。あれが嫌いなんだ。八百長じゃん、何を作ったって舞台裏の苦労なんてあるんだから、それをわざわざ見せびらかすなんてプロじゃないな、って思ってた。バンドでも、youtubeに上がってるライヴ映像とかメンバーのブログとか、見てもすぐ飽きちゃうんだよね。ステージでちゃんと鳴らしているバンドのライヴを観る、っていう、ただそれだけで必要十分だった。

 だったらなんで、皇帝と付き合って、此処にいるんだろう。ああ、本当にただ、「皇帝」が好きだからなんだ。いつでも皇帝で、バンドマンで、ベーシストのこの人が。

 黙々と試奏する皇帝の目は真剣で、宝探しをする少年の目で、きらきらしてて、期待に満ちていた。素人の私の耳でも明らかに分かる程、ダメなものは、皇帝は一音弾いただけでよけた。皇帝が三十分位弾き続けていたベースがあった。私はもう、うっとりとして、またたびにやられた猫のように、椅子の背もたれにダランとしなだれかかって、聞き惚れていたんだ。

 突然弾くのを止めた皇帝が、「コレにします」って言って三十万、現金で出した時は驚いた。

「ごめんニンフ、無い無い言って実はお金あったんだ」

「そんなことに驚いてるんじゃなくて、現ナマって……」

「潔くていいじゃん。分割だと高くなるし」

 この人はどこまでも皇帝だと思ったね。カード一括って選択肢は無かったのか。

 そのあとついでに上野のアメ横行って、軍物専門店で皇帝のコートの二代目を物色して(一代目は肩口に穴が開いていた)、それでキムチ横町で焼き肉食べて帰った。本当、普通の女子なら怒り狂うデートコースだよ。

 え、皇帝が、ベッドでも皇帝か……って……それも話す? 恥ずかしいけど、じゃあ、面白いからちゃんと話すよ。

 ある時、いつも通りロシアンガンジャのライヴを観た後、うちくる? って言われたんだよね。なんとなくそろそろかなって思ったけど、というか、付き合って二ヶ月近く付き合って家に入れてくれないのも変だなあって、でも、変と言えばもともと変なカップルだしメールも電話も全然しないし、とか思って、しかも皇帝は「腹減った」と言って、酒とかつまみとかキムチとか唐揚げとか全然色気の無い、口が臭くなりそうなものを一杯買って行くから分からなかった。

 初めて入った皇帝の部屋は、機材とベースとバンドのポスターが沢山貼ってあるところ以外は普通の一人暮らしの男の子の部屋だった。別にロシア国旗とかは無かったよ。

 帰り道の時点でコンビニの袋からウォッカ出してぐびぐびあおってた皇帝は、唐揚げもキムチも玄関にほっぽって、すぐ「そういうこと」になったんだけどさ。

「農奴の身分で、私の懐中に辿り着くとは相当の奴」

 ガラの悪い酔っぱらいのように絡んでくる皇帝の上半身と玄関の扉に挟まれて動けなくなった。背骨にチェーンが当たってヒヤッときた。でもヒヤッときたのは、いつになく冷ややかで鋭い、皇帝の目のせいかもしれなかった。ステージの上と同じ目。弾き始める直前の、怖いくらいに自信満々の、目。

「皇帝のお眼鏡にかなって光栄でございます。あたしだけだよね、ここまで辿り着いたのは。ちょっとは女の子ファンとかも、今日なんかも、来てたけど……」

「農奴なら黙ってろって」

と言って皇帝が口で口を塞いだ。既に泣きそうだった私を、皇帝はベッドに運んだ。

 皇帝はウォッカをベッドサイドに置いて、着々と私を脱がしていった。ブラ一枚くらいまでは真面目に、それはもう、初々しいカップルらしく、真面目に厳粛にとり行っていたんだけど。

「お前、ライヴ観てる時と同じ顔してる」

「え?!」

「なんか、泣きそうな、切なそうな顔」

「こんな顔で公衆の面前出てる訳ないじゃん」

「いや、最前列で他の客に見られないと思って油断してるっしょ」

「皇帝も、ステージの上と同じ顔してる」

「え?!」

「その、真剣な、感じ。目を閉じた時とか特に」

「何それ俺ってヘンタイじゃん」

「ヘンタイカップル!」

 ってなって、結局いつも通りになってしまった。

「てことは俺のベースがここまで響いてるってことか」

と言って皇帝が私のパンツを脱がし、

「ステージの上でもこんなになってるんだ」

と言って私が皇帝のトランクスを脱がし、

「ソ連の核ミサイルは、弾頭を装着済みです」

と言って皇帝がコンドームをつけて、

「世界がタナトスに包まれるね」

と私が言った。

「あ!! それいい!!」

と言って、全裸の皇帝が突然カバンの中身をぶちまけて、紙とペンを出して、もの凄い勢いでメモを始めた。

「曲が浮かんだ! ソ連とか核とかが出てくる過激なの!」

 さすがの私もびっくりしたよ。本当、普通の女の子だったら、こういう時どうするんだろうね。とりあえず私は、皇帝のインスピレーションを損なわないように、皇帝にインスピレーションを与えた作業を、滞り無く続けることにした。

「キノコ雲って単語エロいよね」

「どうせならまたアメリカも登場させよう」

なんて言いながら、皇帝の手が私とメモの間を往復した。挙げ句の果てには裸のままベースを下げて、リフを弾き始めたからね。ボディが肌に当たって、冷たかった。でもそこから、私の大好きな皇帝のベースの音が、骨を伝って直接響いてきたんだ。結局そのまま核爆発、世界滅亡を迎えて、私達は一緒に一度死んだんだけど、私は一体、皇帝と寝たのかベースと寝たのか、よく分からなかった。本当、普通の女の子だったらこんな男、殺してるよ。でもやっぱり私は幸せだった。だって、世界で一番好きなバンドの曲を作る材料になれたんだよ。ムカつくどころかこの上ない光栄。どうぞどうぞ、私のことなんか、こやしになさって構わない……って、思うんだから、やっぱり私は正真正銘の農奴だね。

 その時出来たのが「皇帝の異常な愛情」という曲だった。「シーツの上が発射基地」とか「NASAは最薄の核弾頭を開発しろ」とか、割と酷い歌詞の、でもめっちゃめちゃ格好良い、恐ろしく速弾きの、激しい曲だよ。

 皇帝はしばらく裸でベースを弾き続けたけど、満足したら一緒に眠った。

 私と言えば、ますます皇帝を好きになってしまって困っていた。初めてロシアンガンジャを聴いた時を思い出した。悔しくて、幸せで、悲しかった。やっぱり、好きなものなんて少ない方がいい。ケチでプライドの高い私は、多くのものに切り分ける愛情なんて持ってない。でもその分、愛しいと思ってしまった数少ないものにだけ、諦めて、大いに屈服してしまうんだ。すがすがしい敗北感。ただの農奴。私はただの農奴でいい。でも、皇帝は、なぜ、ただの農奴の私を、ずうっと隣に置くんだろう……? 他の子に替わることは……? 皇帝の才能のほとばしりを目の当たりにして、いつまで私はこの人の隣にいられるのだろう、と、今まで存在していなかったどす黒い不安が広がって、瞼の裏の黒い世界を、もっと黒くした。

 でも目覚めた皇帝が言ったのは、私はただの農奴じゃない、ということだった。

「ニンフ……本当ごめん……いろいろ浮かんで止まらなかった……」

 寝起きの皇帝が、目の開かぬまま、私の肩を掴んで引き寄せた。

「謝るな。普通の女の子扱いするな。私が全然怒ってないの、分かってる癖に」

「……うん分かってた……実は全然後悔してない。いい曲出来たからな」

「いい曲じゃなきゃ、怒ってた」

 皇帝はベッドの横に散らばっていたメモのひとつを拾い上げ、私を腕枕しながら、出来上がったばかりのリフを口ずさんだ。

「いい曲だよな」

「いい曲だよ」

「そう言えば、ニンフは普通の女の子みたいに、私のどこが好きって聞かないな」

 今聞こうと思ってたとは言えなかった。意地を張って、

「自信があるから。こんな音楽バカ愛せるバカ農奴は、私だけだってさ」

と答えた。

「あーなんかさっきもそんなこと言ってたけど、違うよ。ニンフは農奴じゃなくてニンフェット、ていうかもはやミューズだから、俺の」

「え?」

「もうお前のこと手離せないよ」

 珍しく皇帝がJpopみたいな恥ずかしい台詞を真顔で言うから、不覚にもドキッとしてしまった。腕枕していない方の皇帝の腕が、私の身体の上にまわったから、抱き締められるのかと思ったら、布団の上のメモを拾い上げたのだった。

「世界がタナトスに包まれる……って、どういうポエマーだよ。これって核で人類が死ぬことと、フロイトのセックス論とを、かけてるんでしょ? よく思いつくなあの場で」

「え、でもそういう発想ってよくあると思うんだけど……?」

「もう一体何曲俺に作らせれば満足するんだ」

「えっ、他にも……?」

「この前、楽器屋の後に上野のアメ横通った時も……」

 皇帝いわく、お茶の水の楽器屋の後、アメ横の、店先で派手な呼び声をあげながら袋にチョコレートをバンバン放り込んで一袋千円で売る、有名なお菓子屋さんの前を通った時、私が、「あのコインチョコレートが全部コインだったらいいな」と言ったらしく、それに皇帝が刺激されて「ロシア国歌」という曲が出来たらしい。……お金のない君は、ああコインがコインチョコレートの国があればいいなあ、って言うけれど、寒いこの国なら出来るよ、君の夢は手で溶けないよ、っていう、歌。サビは「ロックバンドに出来ることなんて」のリフレイン。ロックバンドはとりあえず踊らせることしかできないけれど、明日からはまた日本で生きようっていう気にさせるよ、っていう歌で、タイトル通り、ロシアンガンジャのテーマ曲みたいになっていた。

 確かにそんなことは言ったけれど、皇帝に言われるまで思い出さなかったし、あの曲を聴いても気付かなかった。

「ビッグファットチーズバーガーも、ニンフと話してる時に思いついたし……お前と話してると、すごいインスピレーションが湧くんだよ。ちゃんと本読んでるから語彙も多いし……あー悔しいな。今まで他人に影響されて曲を思いつくなんてこと、全然無かったのに。悔しいよ」

 皇帝のその言葉を聞いて、さっき瞼の裏に不安が広がった同じ場所に、あったかいものがじんわりと、染み渡る気がした。皇帝の腕に瞼を押しつけたら、体温でもっと熱くなった。悔しいなんて、皇帝も思ってたんだ。私だけが、悔しいと思ってるんじゃなかったんだ。……その時からこっそり、皇帝にさえ言わずに小説を書き始めていた私にとっては、皇帝に、世界一好きなバンドのベーシストに、尊敬する芸術家のひとりに、頭の中身を誉められたことは、どんなことよりも嬉しかった。

「ねえ今日なんで突然うちに呼んだの」

 照れを隠すために、無理に話題を変えようとして言った。

「今日、なんか、ニンフ、変だったから……ライヴハウスいたときから……」

「えっ」

「なんか、つっけんどんだった、それ、俺が、他の女の子とずっと喋っちゃったからかな、と思ってさ……」

 私ははっとしたよ。腑に落ちた。今日、私がなんとなく不安を持ち始めたのはそのせいだったんだ。その日のライヴ、いつもお馴染みの熱烈農奴男子勢の中に年上の女の人が混じっていて、終演後もずっと皇帝と話していたんだ。随分親しそうに、肩なんか叩き合って……、その人が、恐ろしく美人だったんだよ。

「俺、周りに、ファンとすぐ寝る奴、みたいに思われるの屈辱だし、ニンフも不安だろうと思って、ずっと家呼ばないでいたけど、呼ばないは呼ばないで、不安なのかもな、って思って……、あ、ちなみにあれ、ハンスの姉ちゃんね」

「姉ちゃん?!」

「そんでもって、スパイの彼女ね」

「彼女?!?!」

 びっくりし過ぎて、瞼の裏に留まっていた涙が、ついにポロリと落ちてしまった。

「もう三年くらいかな……いつ結婚するのかって、みんな思ってるんだけど……それにしても美男美女姉弟だよな、って、何泣いてんの」

「え……だって……皇帝、キムチとか買って、わけわかんなかったし……」

 一度出たら涙がドボドボ出てきて、頭の中まで湿ってショートしたみたいにわけのわからないことを言っていた。

「それは……まあ、照れ隠しっていうか時間稼ぎっていうか」

「のんだらたたないから、やらないのかなって……」

「バカにすんなよ。立つよ。まあ逆に、酒の力を借りたかったというか……ていうかお前、やりたかったの?」

「そうじゃなくて……! でも、部屋いっても、なにもないとか、なんか、そんなの……」

「彼女じゃないみたい、って?」

 私は黙って頷いた。

「不安にさせてごめん」

「だから怒ってないから謝るな!!」

 これだけ自分は不安だったんだって、自分で厭になるくらいだったよ。しかも不安の正体が嫉妬なんていう、安っぽい感情だったなんて。ま、それだけハンスのお姉さんが美人だったんだよね。

 自分の醜さをこれでもかというくらいに見せつけられたけれど、もう二度と同じことで悩まなくてよくなった。だって、ミューズの代わりは利かないから。

「ああもう、お前のせいで新曲が出来すぎて、スタジオ回数も増やしたんだからな。週二じゃ間に合わなくなってきた」

「それは光栄だね。それで会える回数が減っても私全然怒らないから、安心してね」

「いい曲だったら、だろ?」

「まあね」

「怖いな。でもいい曲しか作らない自信はあるよ……最近、すごく、調子がいい……」

 皇帝は突然「あー!!」と言って手足を投げ出して、

「お前のせいでもう、ロシアンガンジャが、皇帝が、面白くて仕方無くなっちゃったよ……!」

と言い放って黙ってしまった。

「……それじゃ、ダメなの?」

「クロビシンも、始まるかもしれないんだよ」

「クロビシン!! 再開するの?!」

 一度、ネットに上がっていた音源を聴いたときは既に休止していて、ライヴを観ずに終わってしまった、皇帝の前のバンド。

「クロビシンのバンマスの蛇介っていうのが、今、『秋葉原camp』っていうライヴハウスのスタッフやってて。この前たまたまオニオンの人と話す機会があったらしいんだけど、昔のクロビシンの音源を最近聴いたらしく、蛇介がクロビシンのギタボって知ったら、すごいベタ褒めしてきて。『是非再開してくれ、個人的にもオニオンとしてもプッシュしたい』と言ったらしい」

「それって、すごいんじゃない?!」

「どうだろうな。とりあえず蛇介はすごく乗り気になっちゃって、オニオンの名刺見せびらかしながらライヴに来た」

「オニオンって言ったらアメリカンガジェットと同じだよね。周りで、オニオンに声かけられて有名になったバンドって、多いよね」

「っていっても、オニオンのヒラの、酔っぱらいのリップサービスかもしれないけどさ」

「いいじゃんなんでも。打倒アメリカ!!」

「……だとしたら、蛇介がドラムスとギターをクビにしたまま休止してるから、まず替わりを探さないと……っていっても蛇介相当の我がままだから、なかなか見つからないだろうし、メンバー替わったあとのクロビシンを、気に入ってもらえるかもわからないし」

「さっきから皇帝、喜ばなすぎじゃない? あとで失望するのが怖いの?」

 皇帝の肩をバンバン叩きながら、実は私も、ほんの少し、怖れていた。もう観られないと思っていたクロビシンが観られるなんて、皇帝を今の倍観られるなんて、オニオンに声かけられるなんて、嬉しいに決まってるのに。「人は手を伸ばせばつかめる幸福ではなく、住み慣れた不幸を選ぶことがある」とか何とか、誰かが言っていたけれど、ここは不幸なんかじゃないから尚更。今大好きな皇帝の、違う姿を見るのがちょっと怖かった。

「もしかして、ロシアンガンジャ辞めるなんてこと、無いよね?」

「無い。絶対無い。でも今ほどはガンガン活動出来なくなると思う」

「今ライヴ多すぎだから減らしてもいいと思うよ、最近週二じゃん」

「……でも折角今、面白くなってるのにな、ロシアンガンジャで曲作って、皇帝で弾くのが……自分がこんなに面白いベースを弾くとは思わなかった。自分にはこの立ち位置が、すごく似合ってるんだろうと思う……クロビシンだったら、今みたいな好き勝手は出来ない……」

「皇帝もしかしてクロビシンやりたくないの……?」

 珍しく煮えきらない皇帝にそう言うと、

「いや、やりたい。いいじゃん、売れたいよ、俺は!! 蛇に切り売りしてでもさ!!」

と叫んで笑った。切り売り、というのが引っ掛かった。皇帝は蛇介さんのことがあまり好きじゃないのかも知れないと、ちらっと思った。

 そのすぐ次のライヴに、蛇介さんが現れた。フロアで皇帝を「タツ」と呼んだことと、それから皇帝がちょっとちぢこまって話していたのとで、何となくこれが蛇介さんなんだろうと分かった。小柄で細身で色白で、薄くて平坦な顔の上に一重の瞼が刃物で切ったように開いている、歌舞伎役者のような人だった。ライヴでは前列農奴に混じらずに、一番後ろで、見守るように観ていた。終わった後、静かに皇帝のところに行って、随分と長く話していた。たまたま近くを通ったら「いつまでやるの?」という蛇介さんの声が聞こえた。背筋を爬虫類が這ったようにぞぞぞっと寒くなった。いつまで、こんな、お遊びバンド、やってるの? 語調は穏やかだったけれど、それだけで、そういう意味なんだろうと、私は直感した。

 蛇介さんは、皇帝にロシアンガンジャを辞めさせる気。

 その日皇帝の家に行ったら、初めて皇帝が弱音を吐いたんだ。

「もともとは蛇の言う通りお遊びで始めたバンドだったよ。すぐ辞めるつもりだから、ぶっ飛んだネタ設定で好き勝手なことやれた……でもその開き直り具合が居心地良いみたいで、もう九ヶ月続いてる。笑ってくれて、全然、構わないんだけどさ、笑い飛ばしてくれて全然いいんだけどさ。でもイロモノ扱いされるのはやっぱり、明らかに損なんだよな……売れる面で。音だけじゃ、マニアと同業者しか観てくれない」

 皇帝は、もう二十四だとか、多少不本意な方法でもいいからチャンスに食いつきたい、出来るだけ若いうちに、とか、お金の話だとかをした。コインがコインチョコレートになるって言ったのは皇帝だったのに。溶けてきたんだ。

 蛇介さんがやって来た次のライヴは、明らかに出来が悪かった。全然煮え切らない、不発弾みたいなライヴだった。何かに遠慮しているような……相変わらず恐ろしく巧いし別にミスしているわけでもないし、前列農奴はいつも通り大騒ぎしてたんだけど、私はものすごく腹が立った。でもそれだけじゃなくて、MCも違った。

「俺こうやってロシアのついたバンドやってるけど、そんなにロシアのこと好きじゃないんですよー今日来る前も三人でマック食ってましたから。大体、プルートバーでライヴやる前は、駅前のマックにいますね。がっつりアメリカナイズされて来んの、ハンスがマック大好きだからね」

「俺、ドナルドに改名しようかな」

「駄目だろ、これからビッグファットチーズバーガーやるんだから」

「自己矛盾になっちゃうか」

「あーあと俺が一番好きなのはバーガーキングですね、cautionでライヴやる前は、目の前のバーキンで必ず食べてますね」

「バーガーエンペラーじゃん」

「……もう、なんか、アメリカガンジャで良くね? はーいじゃあやりますね、アメリカの食生活を危惧した歌ね」

 前列どころかみんなウケていた。それはそれで良かったんだけど……、滑ってもいいからカマす皇帝はどこかに行ってしまったみたいだった。どうせつく嘘なら、わざとらしい嘘の方が分かりやすくていいのに。わざとらしい嘘の上に更に、わざとらしくない嘘をかぶせて、自然に気取らない風を装っているのが私には分かってしまって、複雑な思いだった。ハンバーガー嫌いで、アメリカが嫌いなロシアの皇帝を演じる方がずっと居心地良いはずなのに。そんなに「お遊びですよ」という注意書きを入れたいのか。

 皇帝は、ロシア国歌をやるのをやめた。 

 かわりにラストに来たのが、「ナポレオン」。皇帝の家で、出来たての音源を聴かせてもらった時のことはよく覚えている。

「いつでも俺達は来た道の後ろに火をつけて

 思い出と逃げ道燃やしてきたのさ 

焦土作戦どーしょーどーしょー 

焦燥焦燥ハラショーハラショー」

「皇帝でいる限り 皇帝でいる限り 俺はステージに君臨する 

革命起きたら失職さ 帝政コケたら穀潰し」

 ものすごくとんがった、アグレッシヴな音に、キャッチーなメロと歌詞が乗っかっていて「これは絶対キラーチューンになる」と直感した。皇帝を褒め殺したけど、でも、本当は、ロシア国歌を裏返しにしたような歌詞に皇帝の迷いが見えてしまって、胸が痛かった。前の皇帝なら、こんな、バンドマンの現実の生活が透けて見えるような歌詞書かなかっただろう。もう皇帝は夢いっぱいの「ロシア国歌」をやれないのか、と思うとさ……まあそれでも相変わらず多作なのは才能だなと思ったけどね。

 予想通り「ナポレオン」は大人気曲になった。一度ナポレオンをやらずに終えたらナポレオンコールがかかっちゃって、結局やることになって、時間オーバーでPAに怒られたくらいだった。皮肉だね、弱みを見せた歌詞が共感されたのもあるんだと思う。でも私から見ると、ライヴは明らかに悪くなってた。他人のことなんか見えてないみたいに、子供の熱中みたいにベースを弾いてた皇帝は、今は他人ばかり見てた。すぐステージからせり出して、客にべースを弾かせるし、マイクを渡すし、MCで前列農奴と内輪話をする。そうすれば、手っとり早く盛り上がるから。他人に認めてほしくてたまらない、それはそれで子供みたいだった。全然ちゃんとしてなかった。酒量も増えた。一度、独りで帰れなくなるくらい酔って、私が家まで付き添ったことがある。

「恥ずかしくないの? ファンと付き合って、こんな真似させて……みんな見てたよ」

「ごめん……本当ごめん……」

「私だって不名誉だよ。こんなことしに毎回ライヴ来てると思われるの……」

「ごめん……」

「何がごめんなの?」

 うだうだごめんしか言わない皇帝にイライラして、支えていた皇帝の片腕をバッと離して、皇帝を正面から睨んだ。皇帝はフラフラして自販機にぶつかった。

「音楽が駄目だから。ニンフが怒るのは、音楽が駄目な時だけだから……」

 足取りに反してしっかりした口調で、皇帝は言った。

「分かってるんだ、良くないって」

 皇帝は頷いた。意外だった、とりあえず盛り上がっているから良いライヴをしていると、皇帝自身思い込んでいるかと思ってた。

「ライヴ、良くないから、イライラして、飲み過ぎて、こうなってる……だからライヴが良くないのが悪い……ごめん、ニンフ……ちゃんとやるから、もう少し待って……」

 泥酔しているからか、臆せず私を見つめる目で、ああこの人は音楽に真剣で、音楽にしか真剣じゃないのだと分かった。そして私も。

「私はバカなファンじゃないから、辛い時も支えたりしないし、ライヴが悪ければ来なくなる。客に甘えるのはやめて。ちゃんと弾いて、ちゃんと歌って。それしか皇帝が認められる方法は無いよ」

「ニンフ……」

 私は子犬みたいにすがる目の皇帝と一緒に、新宿東口広場を歩いて、高円寺まで帰った。電車では一言も喋らなかった。私の中はぐちゃぐちゃだったよ、もう。待っててという皇帝をいつまで待つんだろう。世界で一番好きなバンドだから、そう簡単に捨てる気なんて無いよ。ちゃんと、もっとどんどん良くなっていくところを見たいよ。口ではああ言ったけれど、そんなにすぐにライヴ通いをやめる気は無かった。でも、弱っていく皇帝なんて見たくなかったんだよ、好きだからこそ……。あの、偉そうで、しゃしゃり出た、ベース一本で世界と対峙していく気みたいな、自信満々の皇帝以外見たくなかった。ケチな私は、このまま弱った皇帝を見続けたらロシアンガンジャが嫌いになっちゃうんじゃないかと、不安だった。

 なのにさ。

 ある時、「市ヶ谷テンペスト」という弾き語り専門のハコに、急遽皇帝が出ることになった。出演者のひとりが突然産気づいたとかで、代打の話が蛇介さん経由で来たらしい。私は皇帝がギター弾くところなんて見たこと無かったし、弾き語りなんてしんみりしたもの似合わないだろうと思ったんだけど、どうやら多作な皇帝は、バンドでボツにした曲のストックがあったらしい。市ヶ谷は大学から三駅で、当時週一しか行ってなかったけれどその日はたまたま登校する日で、帰りがけに行くのに丁度良い時間だから、と言って行くことにした。……というのは口実で、本当は最近不安定な皇帝が気になってたんだけど。蛇介さんと会うかもしれないと思うと更に。蛇介さんって、私にとってはもはや敵だったからね。弾き語りに全然興味無かった皇帝に声をかけるなんて変な話。ロシアンガンジャから気を逸らせるために、君は自分のいろんな可能性を試した方がいいとか何とか言って皇帝をそそのかして出させたんだ、と思ってた。

 皇帝は「皇帝四面楚歌」という名前で、一番手で入っていた。開演間際なのにお客さんは二十人くらいしかいなくて、みんな内輪の客みたいだった。まあ平日だし初めて出るんだしこんなものかと思ってたらその中に皇帝がいた。

「あれ? スタンバイしないの?」

と言ったら

「弾き語りって準備すること全然無いから大丈夫なんだよ」

なんてヘラヘラ煙草を吸っている。弾き語りの練習なんてしてなそうだけど平気なのか、とか、ボツ曲をひっぱりだすってどうなのとか、いつもやってる精神集中はしないの、とかいろいろ聞いたら、

「大丈夫、今日はゆるーくやるからさ、身内しか来ないし」

 カチンと来た。何故か知らないけれどそれが引き金になった。

「身内なんかじゃないよ!! 客だよ客、ちゃんとやれよ!!」

 バーッと叫んで、ポカアンとする皇帝を尻目に、

「偽皇帝!!」

と言ってライブハウスの厚い扉をバゴンと閉めた。飛び出して、市ヶ谷のビル街を走って走って、追いかけられないように曲がって曲がって、息が切れたらメールを打った。

「別れる。もうライヴは行かない」

 皇帝から返事が来たのは三十分後だった。

「分かった。自分の非は分かってる。お前をライヴに呼べるくらいになったら連絡する」

 ああ私を追ったりせずに弾き語りはちゃんとやったんだ、と安心した。もう私のことなんか好きじゃなくていいから、また最高のロシアンガンジャを聴きたいと思った。自分が勝手に心配してライヴハウスに来た癖に身内と呼ばれて怒るのも変だけれどさ……そう、もう甘えてくる皇帝以上に、甘えられてヘラヘラしてる自分自身に我慢出来なかった。それならもう身内でも彼女でも何でもなくなりたかった。一番好きなものを好きで居続けるために、偽物の皇帝はしばらく見ないことにした。どれだけ、ロシアンガンジャが好きなんだろう。皇帝が好きなんだろう。好きじゃないんだろう。音楽と皇帝本人と、どっちが好きなんだろう。別々には出来ないものなんだろうか。……普通じゃないよね、普通は好きな人に甘えられたら喜ぶし、弱みもすべて見せてほしいと思うだろうけど……。まあ私達は不自然が好きなんだよ。

 皇帝と別れて、私は妙にすっきりして、自分のことをし始めた。私自身もステージを降りたというか、気が楽になったのかも。どこのライヴハウスにもぱたりと行かなくなり、皇帝に言わずにこっそり書いていた小説を投稿したり、週一回しか行ってなかった文学部のゼミの先生の勧めで出版社を受けたりし始めた。両方落ちたけれど、でも落ちた出版社の選考で書いた小論文が、独立して新しい雑誌を立ち上げようとしていた編集者に気に入られたんだ。それでその人の新しい事務所に、とりあえずバイトとして入ることになった。週四で九時五時。卒業したら面倒見てやると言ってくれてるし、近いうち小さなコラムくらい書かせてもらえるかもしれない。将来の目処が立ったら安心して、再びポツリポツリと、ライヴハウスに行きだした、そこで梨沙に会ったんだったね。

「それって、別れてないんじゃないのお?!」

 話が終わるのを待ち構えていたように梨沙が言った。

「どうかな。でも私、皇帝が他の子と付き合ってても別にいいよ。私も好きな人出来たらそうしてたし」

「皇帝のこと、もう好きじゃないの?」

「好きじゃないわけじゃないけど……うーん、吹っ切れてるよ。良いライヴして欲しいな、と思う」

「何それ。皇帝がフリーだったら、また付き合いたいとかも思わないの?」

「…… そういうことさえ、もう思いつかないんだよね……でもどうかな。またああいう思いをするのは面倒だし……それに一度ダメになったものにもう一度すがるなんて、瞬間芸術やってる人間のすることじゃないね。皇帝は分かってるよ。あたしも、一度戻っちゃえば、もうただのファンでいる方が気楽でいいよ」

「訳わかんない」

 梨沙は吐き捨てるように言った。

「確かに、訳分かんないだろうね。……私も今思うと、皇帝にハードなことを要求してたと思うよ。ステージを降りても、ステージを降りることを許さなかったんだからね。ある意味、ずっと奴隷でいることを要求してたんだから」

「そのあと、皇帝のこと、全然気にならなかったの?」

「気になってはいたよ、でも、皇帝も吹っ切れたっていうのはライヴハウスのフライヤーを見てるだけで十分分かったから。おびただしい量のロシアンガンジャの名前が嫌でも視界に飛び込んできたし、大物ともどんどん対バンしてるみたいだし。ああでも、本当にほっとしたのは、蛇介さんが「ヘビニラミ」っていうソロプロジェクトを始めたって知った時かな。やっぱり私、嫉妬してたみたい。やっと皇帝を諦めたのかって、全身の力がふにゃふにゃになるくらい、安心したよ。それで、皇帝から連絡が来るのももうすぐだと思ったね」

「ねえそういうことを思ってても、全然伝わらないけど、それで、いいの?」

「そういうことって?」

「皇帝がどうしてるか気にしてた、とか、蛇介さんとどうなったか気にしてたとか」

「いいんだよ。ファンは金を落とすだけで。それに今日来たことで十分伝わる、まだ皇帝の音楽に興味持ってるって」

「本当、音楽バカだね。二人共」

 梨沙は鞄の中から、折れ曲がってベラベラになったフリーペーパーを出した。

「じゃあ、こういうのもチェックしてないんだ玲奈は。そうだよね、玲奈こういうのさえ読むの嫌いだもんね、『同業者同士の馴れ合いじゃん』とか言って」

 ライヴハウスによく置いてある、業界人が趣味で作っているような粗末な装丁のインディーズロック情報誌。でも見かけの割に評価が高く、これを参考にして行くライヴを決める音楽通の知り合いも多かった。

 表紙には大きく赤字で「今月の刺客 ロシアンガンジャ」とあった。

 二〇〇八年一月結成、活動開始から一年半にして東京アンダーグラウンドを破竹の勢いで上り詰めた異色ロックバンド「ロシアンガンジャ」。オルタナティヴ・ロックをベースとした硬派で厚みのある音作りは音楽通をも唸らせるが、そこに乗るのがオールロシア絡みのネタ・リリック。バンマスで作詞担当のBa./Vox.が「皇帝」を名乗り、Gt.はハンス、Dr.はスパイ。客を「農奴」と呼び、MCでは「ペレストロイカ!」と叫ぶ彼らのステージングはシーンを超えた話題を呼び、遂にはヴィジュアル系ロックバンド「マニ30」とのツーマンも決定。

 東京インディーズロック界の異端児「ロシアンガンジャ」の内部事情、大いにグラスノスチ(情報開示)していただきましょう!!(文責・蛇)

――そもそも「ロシアンガンジャ」というバンド名の由来は何ですか? なぜ、ロシアをテーマにしたバンドをやろうと思ったのですか?

皇帝(以下「C」)「僕があるオールナイトのライヴを観に行った時にいた、ある女の子がきっかけです。音楽マニアか同業者しか来ないような、渋いオルタナバンドばっかりの濃いイヴェントで、客は半分オッサンみたいなお兄さんばっかりなんですけど(笑)、その中に、まだ二十いってるんだか分かんないくらいの若い子が来てて、独りで、最前列で観てて。男物みたいな、毛皮付きのロングのアーミーコートに編み上げの軍物ブーツ、で、スミノフ握りしめてるの。なんかロシアっぽい(笑)。ロシアの軍人のコスプレみたいな格好してるんですよ、可愛いんだけど(笑)。で、暴れる俺らに混じって彼女だけはじいっと微動だにせず、完全にキマッちゃったみたいに固まって、ステージだけを観てました。ちょっと、あれは、相当だと思ったね(笑)。本当に音楽が好きなんだなと思って、妙に印象に残ったんです。それで、あの子みたいなパッションで、ドラッグみたいな音楽やりてえ、って思って、ロシアンガンジャと名付けました。皇帝って、あの子のコスプレなんですよ(笑)。あとの設定は全部、ノリで決めました(笑)」

ーーメンバーのキャラ設定、お客さんを「農奴」と呼ぶことなどは、シーンからするとかなり異色ですよね。ヴィジュアル系などから意識的に取り入れたのでしょうか?

C「いや、もう、ノリです。全部自分達から出てきたものです。自然発生的に。……ただ、最近車掌(編注:7月にツーマンを行うヴィジュアル系バンド「マニ30」のヴォーカル)と話してて思ったのは、我々界隈のバンドはステージングが下手過ぎるということ。衣装とか、MCとか。我々はもっと彼らから学ぶべきですね。シーンが俺らを浮かすんじゃなくて、お前らがこっちに溶け込んで来い、と(笑)」

ハンス(以下H)「別に、自分のこと皇帝とか、お客さんのこと農奴とか言っても、威張ってるわけじゃないですからね(笑)」

C「むしろ我々が農奴、というか、奴隷なんです。あの子みたいに、音楽に隷属するんだ、っていう。あの子くらい真摯に音楽にお仕えしたい、と。恥捨てて、本気でバカやって、本気で魅せていきたい。音楽奴隷みたいな、全部かなぐり捨てたパフォーマンスをしてきたい。だから、本当は、客が皇帝なんです(笑)」

「玲奈と初めて会った時、四月だけど雪が降りそうなくらい寒い日で、毛皮付きのアーミーコート着てたよね。格好良いねって褒めたら、高校生の時からのお気に入りで、ずっとヘビロテしてるって、言ってた。これ、玲奈なんでしょ?」

 視界が滲んで、紙面の文字が読めなくなっていた。酸っぱい、甘い、悔しい気持ちが、胸に染み渡っていた。皇帝が初めて話しかけてきた時、私のことをどこかで見たことある、としきりに言っていたのを思い出した。私のことをミューズとか言ったけど、それじゃあ、そんなの、ずっと前から。そんなの知らなかった。不自然に隠してた。私が、舞台裏なんか見たがらないって知ってるから……?

「皇帝は玲奈に読まれるか分かんないところでラヴレター書いて、玲奈はフライヤーしか見てないなんて、本当、バカ。どうしようもない音楽バカだよ二人共。皇帝は玲奈のことが好きだよ。じゃなきゃこんなこと載せない」

 梨沙の言葉で、目の縁にたまっていた涙が遂に一滴、紙面にこぼれた。その瞬間それを打ち消すように、私は紙をビリビリビリッと二つに引き裂いた。

「何してんの?! あたしの!!」

「分かってないね、全然分かってない。皇帝は、読まれるなんて思ってない。私も読んでなんかない。皇帝はこんなことしない。私はこんなことで喜ばない。今日のライヴが良くなきゃ、もう次は来ない。変わらないよ」

 どんどん引き裂いてちりぢりになっていくフリーぺーパーがテーブルの上に小山になった。引き裂く作業に集中しながら、紙屑を睨んで涙を止めた。なのに、階下から、懐かしい、あの、大好きなベースラインが飛んで来て、私の身体を貫いた――ロシア国歌のイントロ。再び溢れた涙はもう止められなかった。紙屑は、無数にこぼれる涙の粒を吸って、すっかりブヨブヨになってしまった。

 また、搾られるんだろう。とっても、面倒臭くなるんだろう。幸せも悲しさも悔しさも全部、カウンターストップするんだろう。もう、諦めた。すがすがしい敗北感。音楽奴隷はお互い様だ。

「そんなこと言ってもさ、やっぱり、嬉しいんでしょ、玲奈。素直になりなよ」

 梨沙はそう言って、鞄の中から情報誌をもう一冊取り出した。

「実は二冊とっておいたんだよね。玲奈用に。はい、あげる」

「もうどっちでもいいや……」

 好きだろうが好きじゃなかろうか、嬉しかろうがそうじゃなかろうが。私はやっと泣き止んで、力無く手を伸ばして、梨沙の手から情報誌を受け取った。

「もう行こう、玲奈。開演時間だよ」

 梨沙に手を取られて、私はへなへなと立ち上がった。

 本当に好きなものをなくさないなんて、簡単だ。本当に好きだったら、身体中に埋め込まれて、なくすなんてできないんだ。

「悔しい」

 皇帝にも同じだけそう思っていてほしい。でもずっと、負け続けるんだろう。

2009年 / 23,081字(66枚)

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