ラリる猫

 田舎の家は変な匂いがするから嫌い。そう思ったのは私だけだろうけれど、葬式の最低限のルーティンが終わると、お寿司や瓶ビールや大きくなったねがずらりと並ぶ喪服色の母屋をすり抜け、離れの新築に避難した私に、秀兄もついて来た。こっちはこっちで建築材の匂いがする。あっちこちの真新しい板を、ボンドの親分で貼りつけました、というような、有害な化学物質の匂い。でもあっちの母屋、死体に着々と近づいている老人達から漂う、もしかしたら死体の匂いに近いかもしれない、ぎょっとするように酸っぱい加齢臭と、人間が漬けられそうなほど大きな漬物瓶から漂う不気味な漬物臭よりかは、まだまし。

 死んだのは、私のお祖父さんの弟らしい。会ったことは無かった。聞けば退職後にテトリスとケンタッキーと着道楽に目覚めた彼は、サイケ柄のシャツと紫色のスラックス姿、法定速度を超えた運転により、ドライブスルーでチキンを購入しにいく途中で自爆事故を起こしたらしい。だからきっと、兄の孫が葬式後の宴会をエスケープして携帯ゲーム機にいそしんでも、文句は言わない。

 家のこたつの向こう側に座る秀兄、三つ上の従兄弟は、天板の上にノートを広げ、正しい姿勢で受験勉強をしている。私はこたつの中にもぐり込み、カメのように首だけ出して、携帯ゲーム機の小さな画面をちょろちょろするマリオカートを追う。フリをして、秀兄を盗み見る。カメのまま、首をマックスまでねじり、視線を、白目剥きそうなほどに仰角に向け、天板すれすれからやっと覗ける秀兄の真剣な表情を盗み見る。秀兄はこの離れに父母と三人で住んでいる。いつもこの、こたつに向かうもっとも生真面目な姿勢で、勉強しているのだろうか。葬式だからか、着込んだ学ランは上までかっちりボタンが留められている。コバルトに近い紺。ドブの水が混じったみたいに淀んだ色。容赦無くダサい。しかもボタンは、くすんだ鋼色に稲のマーク。「稲」。丸出しの田舎臭に萎える。……しかし秀兄、この田舎、同じ制服を着こんだ生徒達の中では割ともてる方だろう。素材は良い。好青年、という感じの、無害そうな顔立ちをしている。眉が育ち放題なのは腹が立つけど。

「ああいう集まりって疲れるんだ、向こうはこっち知ってるのに、こっちは知らない。同じ顔のおじさん達の間ひきまわされてさ、大きくなった、覚えてるって、あの時はまだこおんなだった、って」

 私がこたつから上半身をひきぬきながらそう話しかけると秀兄は慈悲深げに目を上げてくれた。

「いくらニコニコしても、小遣いも貰えねえし、いいこと無いよな!」

 二年ぶりに会った秀兄の声は髭の生え始めたその肌と同じくガサガサに低くて、何度聞いても違和感があった。声変わりの前の秀兄とはよく遊んだ。

「秀兄、さあ……」

 と声を掛けたけど言うこと無かった。受験のこと、親戚の誰誰は元気とか、話題はいくらでもあるはずだったけれど、どれもこれも、私達が同じ顔をしたおじさん達に聞かれ尽くしてげんなりした質問だったと気付いた瞬間、口先から引っ込む。久し振りに会う従兄弟と世間話以外話すことが思い浮かばない。

「理菜、東京ってやっぱ楽しい? こっちとレベル、違う?」

 出し抜けに秀兄が身を乗り出した。

「何のレベルさ」

「ほら、いろいろ、遊ぶところとか、いろいろ。街とか歩いてると芸能人にも会えたりするの?」

 ぷ。

「秀兄、そういう質問、東京の大学入ったら絶対するなよ、田舎モノがバレるよ」

 私は再び勢い良くこたつにもぐりこんだ。ああ、こんな真正面に恥ずかしい人。

「東京の人はツメタイなー」

 と秀兄がわざとらしい無機質で言った。タがダに近くて、それが東北っぽくて再び萎えた。……秀兄に会わなかった二年間、私が育ち、そういうものに敏感になっただけかもしれないけれど、秀兄の周囲全部に纏わりつく、田舎臭さが鼻につく。秀兄の背、突然伸びたと思う。雑に大きくなってしまった、上背。顔もローラーをかけて大雑把に引き延ばしたように面積が大きくなって、毛穴とか、鼻とか口とか、顔の全部の穴のサイズが増した。唯一目だけは例外、アーモンド型にくり抜かれていた目の縁だけは、真横に引っ張られたように成長し、今は柿の種のようである。正月にやる福笑いのように、少しずつパーツの配置がおかしい秀兄の顔。……でもこんな残酷なことを思いつくのは今までの秀兄の顔を知っている私だけで、秀兄のクラスの女子には普通に格好良く映るのかもしれない。

「ねえ秀兄、彼女いないの?」

「いないよ」

「欲しい?」

「いらん、受験だし。そんな余裕無いよ」

「禁欲?」

「若い癖にむずい単語知ってるなー、理菜は。そ、禁欲禁欲。ゲームもサッカーも、全部おあずけ!」

 なんだか、やってもいない手の中のゲーム機をおちょくられたようで、むかつく。

「理菜は、いないの? 彼氏」

「いるわけないじゃん中二で」

「いや、でも、都会ってそういうの、進んでるんじゃ……?」

「何それ」

「いや、ドラマとか小説に出てくる東京の中高生って……」

「そういうアホな小説ばっか読んでるからボキャ貧なんだよ秀兄は。あと中絶率も田舎の方が高いんだから」

 再びカメのようにこたつにもぐり込んだ。秀兄、昔はタメのように遊んでくれたのに、今は私を自分の羽の下に覆い込もうとして、何やらかにやら年上ぶるのが、腹立たしい。さっきも霊柩車を見送る時、身長差をいいことに、私の頭に手を置いてぽんぽん、とやった。私そんな子供じゃない。第一私、悲しくもなかった。ただ、数日前まで生きていた人間の身体が、いまや何かの標本のように、綺麗な桐の箱に収められ、更にあのゴージャスな車の中に収められ、私の目の前を「搬送」されていく、そしてとても近い未来、燃されるのだろう、けれど、それって不思議だ、まだこんなにぬくい、涙、人の悲しみというものにあの人の身体はくるまれているのに、あと数時間したらただの灰となってしまう、一体あの人、そこまでまだ、死んじゃいないんじゃない? ……と、不審に思っていたのだ。例えばもう一度、交通事故に遭ったら面白い、そうしたら彼、二回交通事故で死んだ、と言えるのか、とか、そうしたら葬式はやり直すのか、とか、二度目の事故では本当にちりっぢりになってしまって、火葬の手間が省けるかもしれない、死んだ肉ってやっぱり生きた肉よりもろいだろうし、だってケンタッキーは死んだ鳥の肉で、関節も子供にだって容易く外せる……と、そんなことを考えながら、生きると死ぬの間って何だろう、と、ふわふわと頭の中の辺境の、難しいところを漂っていたのだ。そういうことを考えている時って、傍から見ると悲しそうで、可哀想で、慰めてやりたくなる? 

 ……そんなことを私が思い出しているうち秀兄は黙り続けていたのだからさっきの私の発言に面食らっていたのだろう。私が目を合わせると秀兄は逸らしながら言った。

「……まあ、とにかく、理菜は自分の身体大切にな」

 うっそ。お前は親父か。今度は頭から布団をひっかぶって、秀兄と同じ空間の空気を吸うことを拒否した。視界が一気に爛々としたオレンジ色に染まって、一瞬目が眩む……こたつの中は意外と明るい。自分の視界三方に広がる布団の世界はふわふわとしながらもしっかりと外界と内とを遮断し、濃密色のその光を外へ漏らさずにいる。むうっとした熱気も密閉されてて……何だかやらしい。布団の表面にはぬらぬらとオレンジ色が落ち、無数にある皺の内側へと濃い黒色の陰を追いやっている、そのコントラストがグロテスク、まるで襞だらけの人間の口の中、内臓の中のよう、多分胃カメラというのはこういうところを通っていくのだろう。このぬくさもリアルだ。足先と比べてこたつに突っ込んだ頭部だけがやけに熱い、このギャップも、胃カメラ気分を増す。あぐらをかいていた秀兄の脚、消化を拒否するようにもぞもぞと動いてこっちへ向かってまっすぐ伸びた。鼻先近くに到達しそうになる。慌てて外界にエスケープするも、白いスポーツソックスの足の裏が、土踏まずを残して真茶色に汚れている画像がばっちりと記憶に残ってしまった。……。

 こたつの内部と外部の温度差やら、鼻先に残る悪臭やら、虚脱感やら、に支配されてぼうっとしていると、戸の向こうに大人の気配を感じた。素早くゲームをしまって、秀兄の参考書の下にあった私の春休みの宿題を引っぱり出してポジショニングする。間もなくガラッと戸が開いて、見覚えがあるが名前も、自分との血の濃さも不明の、二十代後半の女の人が現れた。

「あら、秀一君と理菜ちゃん。こっち来てたんだー」

「おう、正美姉さん」

 そうそう、正美さんだ。葬式の参列で直系のところにいたから、お祖父さんの弟の孫……つまり、私とは再従兄弟か。葬式ではちゃんと泣いていた。今だって、上下揃いの喪服をきちんと身に着け、スカートは膝下、脚の一番太いところで丈が止まり、きちんとダサい。髪はひっつめ、おだんごにして黒いネットの中にたくしこんでいる。まあまあの美人なのに、授業参観に現れる保護者のようで、勿体無い。さすがこっちの人間……というところ。……ところで宴会には行かなくていいのだろうか? 

「理菜ちゃん久しぶりねー。ずーいぶん大きくなって。大人っぽくなったねー元気してた?」

 私はカメスタイルのままコックリ頷く。

「ねえ、お祖父さんがこんなことになって……こんな時にしか会えないなんて……親戚なんて寂しいものね」

 いきなり一人で勝手におセンチになりながら正美さんは秀兄と私の間のこたつの一辺に入った。入る時いったん膝を揃え、脚を斜めにしてこたつに滑りこます仕草に目を奪われた……が、すぐに、やってもいない宿題に目を戻す。

「秀一君と理菜ちゃんは、会うの久しぶり?」

「そうだね、二年ぶりくらいだと思うよ」

 秀兄が答える。私は黙る。

「宿題?」

 こっちに正美さんが話しかけてくるので仕方無く「うん」

「春休みの?」

「そう」

「ふうん、多いの?」

「うん」

「大変ねー」

 そう、多いの。宿題を真面目にやっているフリをしていれば、大抵の大人はそれ以上余計な世間話を始めない。しかし正美さんは結構頑張ってきた。

「勉強、難しい?」

「そんなことないよ」

「ふうーん、理菜ちゃんは勉強出来るのね」

「義務教育だから誰でも出来ることしか出ない」

「……」

 やっと私に話しかけてこなくなった。

「秀一君も、大変ね、受験……東京の医学部受けるって、決めたらしいね?」

「うん。そのつもり」

「へえ、さすがねー、秀一君は昔から頭良かったからねえ……、この前の期末試験なんて、学年トップだったんだって? お母さんから聞いちゃったよ」

「いやあ、まあ、でも、こんな田舎の学校で一番って言っても、東京の医学部受ける奴なんて全国からトップレベルが集まってくるんだし、井の中の蛙にならないようにしないと……」

「へー、真面目だね」

「だから今度、全国模試受けるんだ」……

 秀兄こそ勉強が大変なのに、私との会話を断念した正美さん、秀兄と長話をしている。かまってあげる秀兄も偉い。田舎色の濃い人間って、こういうのに慣れているんだろうか……。私は気配を消す。都会育ちの私が得意なのはこういうことだ。授業中、先生に指されたくない時、食卓で、自分にかかる学費が火種の夫婦喧嘩の真ん中に挟まってしまった時、休み時間、仲の良い友達が興味無いテレビの話で少し遠くで盛り上がっている時……。話しかけられたくない時。ごくごく控え目な量の空気を丁寧に吸い、吐き続ける。その作業に集中すると、「この世に生息させてもらっている」という謙虚な気持になって、我が消える。上手くいったらその集中力を、こぼさぬようにゆっくりと、耳に平行移動させていく……。この世で私に一番向いている職業は、スパイだと思う。

 他愛無い世間話が聞こえ続ける、その合間、シャワッという固めの布が摩擦するような音が耳を擦った。眼球だけ動かすと、正美さんが髪をほどいたのが見えた。黒い長いまっすぐの髪……個々のパーツが小さく適切にまとまった、ストイックな正美さんの顔立ちに、その髪が寄り添うと、まさに「品良い」という感じ。こんなにも綺麗な髪見たこと無い……というくらい、健康で、つややかで、思わず見とれ……でもどうして髪をといたの。もう宴会には戻らないのか。死んだ人の孫だから、それなりに重要なポジションだし、おじさん達のビールつぎとかするべきだと思うんだけれど。

「はあ、おだんごは疲れる、頭皮がひっつめられて」

 と、私への返事のように正美さんは言った。秀兄はというと、一瞬前までの私と同じように、しかし私よりずっと長い間、見とれていた、その髪に。……男はこういう時まぬけだと思う。私の前で年上ぶりたいなら、私に見られている自分にもう少しヴィヴィッドに自覚的じゃないと。

「正美姉さん、髪伸びたね」

 と秀兄はどうでもいいことを言う。正美さんは左に傾いた。それは秀兄の方向で、彼女は正座を崩したのだった。その時大きく前に揺れた髪から線香の厳粛な匂いがこぼれた。

「秀一君、チョコレート食べる? ほら、頭に糖分必要でしょ、勉強中は」

 と、ポケットから粒チョコを取り出した正美さんの上半身は、正座を崩しているにもかかわらず垂直に真っ直ぐ、美しい姿勢、見習いたくなるほどだ。しかし年の割には胸も腰も真っ平、私と大して変わらない、そこは見習いたくない。まるで板チョコレート。……私にも粒チョコレートを与えてくれたその板チョコレート、だんだんずりずりと秀兄の方へスライドしていく。都合が良い。私の存在は忘れて下さい。私は謙虚な呼吸を続けつつ、眠る。フリをする。耳だけがまるで眠る動物のようにピンと立って、周りの音を拾い続けている気がする……。世間話は秀兄の愛想の良さによって穏当に盛り上がっている。私の犠牲となった秀兄偉い。全身脱力して片耳を床にぺったりつけてしまうと、誰かの踵の骨が廊下の板材を無遠慮に踏み鳴らすドン、ドゴンという音がダイレクトに伝ってきた。ああ、音にも性格があるものだ……と思っているとこの部屋の戸が全開になる。ドバン、とやっぱり無遠慮な音が部屋に響く。

「あー、疲れたー脚疲れたー寒ーい」

 大雑把な音量のその声と同時に廊下の冷気が舞いこんでくる。

「お、秀、おひさー理菜ちゃんもおひさー。その制服可愛いねー」

 冷気のやってきた方向に立つ彼女、葬式会場では高齢者のひしめく中若くて派手で、手っ取り早く目立っていたこの女の人、誰だっけ。

「あたしもいーれてっ」

 こたつの最後の一辺、秀兄と私の間、正美さんの向かいめがけて何かの競技のゴールラインのように飛び込んだ彼女、

「なんだ二人とも勉強中かーつまんないの。勉強すると、正美みたいなカタブツになっちまうぞ!」

「ちなみに、勉強しないと、絵美みたいになるからね」

「絵美みたいって、どんだけー」

 そうだそうだ、絵美さんだ。葬式では正美さんと並んで前のほうにいたからやはり直系、確か死んだお祖父さんの弟の孫。私の再従兄弟……か。私は無邪気に笑い合う二人のお姉さん達の間に瞬間走った視線の電気を見逃さなかった。電気のせいで二人の顔には同時に一瞬、表情の引き攣りが起こった。この二人、仲が悪いのか。顔立ちが全く違うし、姉妹には見えないから、従兄弟同士なのだろうか。向かい合う秀兄と私、正美さんと絵美さん。従兄弟と従兄弟。

 絵美さんの身なりは間違い探しのようにどこかが少しずつ葬式にそぐわなかった。上下黒のスーツは確かに誤答ではないけれど、内に着たスキッパーシャツの開きが大きくて、魅力的な肌色がはみ出てしまっている。

「たちっぱで疲れたー」

 と言って片脚をこたつから飛び出させ、長い爪がストッキングを破かぬようかばいながら熱心にツボを押している。長い脚の長さを全く隠さない、膝上のスカート。片側にはスリットも入ってしまっている。なんだか葬式のコスプレみたい。多分まったくもって普段通りの化粧の濃さの絵美さん、とりあえず喪服のようなものを着ている、というかんじ。きっと喪に服す気は無い。ミルクティー色の長い髪は惜しみなく巻かれ、スーツの肩の上でカールがぼよんぼよんと弾んでいる。彼女がツボ押しに没頭している間、遠慮無く観察させていただく。……そう言えば。葬式で盗み聞いた話、目の前の彼女にカチリとハマる。死んだお祖父さんの弟の孫娘のひとり、一人立ちして上京して数年、一度もこちらへ帰って来ず、この葬式でやっと帰って来た、と思ったらめっきり派手になってしまい、親御さんもびっくり、もともとは大人しくて地味な子だったのに、東京で何があったんだか、お水でもやってるんじゃ……というもの。きっと絵美さんのことだ。お水って、そんな、大袈裟な。……そして失礼ながらリアル東京のお水の人はもっとずっと洗練しているだろう。綺麗な人、正美さんとは違って全てのパーツがばっちりと大きく、更にアイラインや口紅によっていちいちが塗り絵のように縁取られ、くっきりと、お人形のように完璧なのだけれど、彼女が部屋の隅に放っている、赤ん坊丸々一個入りそうな大きなボストンバックを全面埋め尽くすブランドのロゴマークの整列、そこから出てきた、同じ柄の、ガマ口みたいな特大ポーチ、などから、気負いと言うか、もはや怨念みたいなものが出ていて、怖いんだ。磨きたてられた長い爪がポーチの金具を開けた瞬間、化粧品の粉っぽい匂いがこぼれた……ああこれは、私の嫌いな授業参観の匂い。いつも同じ人間しかいない、いつも同じ臭いしかしない教室にその日だけどかどかと持ちこまれた、大人の女の人の異臭だ。ヘンなの、授業参観のような服装の正美さんの髪からは線香の、参観なんて来そうに無い絵美さんのポーチからは参観日の匂いがする。……ああなんだか、部屋の温度に蒸されて、揮発性の匂いが漂ってきた。くらくらする。きっときつい香水だ……。

「絵美、寒いから戸、ちゃんと閉めてよ」

 正美さんが言う。

「ハーイハイ、ゴメンよ」

 ツボ押しをやめてすくっと立ち上がった絵美さんの脚はカメスタイルの私から見上げると二つのタワーのように長く、真っ直ぐで、ストッキングに包まれしっとりと均質の肌色、スカートで陰になったその先には腿に沿う黒いレースの何かがちらりと見えた。私は不覚にもギョッとしてしまったが、幸い絵美さんは私のことなどお構いなく軽快なつま先立ちで戸へ向かう。今にも閉まりそうな戸の隙間からニャアッと鳴いて猫が滑り込んだ。

「よう、トム。あったかいからこっちの部屋おいで。あたしの膝の上、おいで!」

 しゃがんでぽんぽんと膝を叩く絵美さんの横を猫は無視して通過した。

「にゃー」

 絵美さんが切なげに鳴く。多分猫は香水の刺激臭が嫌いなんだろう。

「トム! トム!」

 秀兄がぱんぱんと手を叩く。その音にも反応しない。多分猫は足臭いのが嫌いなんだろう。マイペースに部屋に上がりこみ、意外に多くの人間がいることにちょっと驚いたような顔をした猫は、結局私の元に訪れた。

「うちの猫のクセに、理菜になつきすぎなんだよトムは」

「やっぱ若いオナゴがいいのか、トムー」

 恨めしげに私のほうを見やる秀兄と絵美さんと、私は目を合わせなかった。私はちょっとした優越感に浸る。私は人間に無関心な分動物が好きだ。撫でて撫でられるだけの、シンプルな関係。別に見返りなんて求めない、何も考えず、ただ可愛い形のものを可愛がっているだけ、他の人間のように動物に話しかけたりもしない。だから動物の方も気が楽なのか、かえって私によくなつく。トムはグレーに黒縞、都会色をしたアメリカンショートヘア。この家に不釣合いなほどに、高級な気品を持っている。少々内股、一本の線の上を歩くような優雅な足取りで私の前にやってきて、しゃなりと伏せた。喉を撫でると小さな顎をツンと上向かせて目を細める。猫が横顔を向けたときは耳の裏を掻いてやる。逆の横顔を向けたら逆を。トムは顔を微妙に動かして微調整する。一番撫でてもらいたいところを私の正面に出すのだ。ここらへんはもう手馴れたもの。昨日からこの家に来てトムを撫でているから、もうトムは私の利用法を、私はトムへのサービスの仕方を、熟知している。それが全部の関係。

 私が猫に没頭していると再び我が消えたのか、三人の会話の輪は私を外して閉じつつあった。猫のように聞き耳をピンと立てる。

「しっかし秀、しばらく見ないうちに随分りりしくなったなー。目つきもこう、精悍な感じになってさ」

 と絵美さん。そうか、こういうのはりりしくなったと言うのか。私にとってはただ、男臭くなってしまった、というだけなのだけれど。魅力が増した、ってことなのか。

「学校でももてるだろ、秀」

「いやいや、そんなことないって」

「嘘ー。だってさ、サッカー上手くて、成績良くて、顔もいいってなればさー」

「いや全然、もてるとか無いよ」

「彼女とかいないの?」

「いないよー、全然。てか、受験だもんそろそろ。みんなそんな雰囲気じゃないよ」

「受験受験って言ってもさあ、青い春は一回きりじゃないかよお。器用に両方やんないとさ、すぐオッサンになっちゃうぞおー!」

「絵美は、勉強捨てたクチじゃない」

 と正美さん。

「ハイ、そうでした!」

 明るく挙手しながら答える絵美さんの口の端に、やはり一瞬、電気が引き攣りを起こしていた。

「秀、肩揉んでよー。もう葬式疲れでさ、バリッバリなのよ」

「ちょっと、秀一君、勉強中なのに」

「いいじゃんどうせ、くっちゃべってるだけなんだからさ」

 秀兄はにこやかな笑みを浮かべながら「いいよ。どこ凝ってるの?」と、絵美さんの後ろにまわった。

「ここが、あ、ああー……」

 と絵美さんが出し抜けにセクシーな声を漏らしたので秀兄がびびる。

「どうした、手え止めないでよう」

 と絵美さんが言って、秀兄が揉み、絵美さんが再び気持良さそうな声で、

「あー、やっぱ男の手はいいねえ、力が強くてさあ。秀も男の手になったよお」

 と言った。正美さんはいかめしい目つきで、そんな二人を盗み見ている。まるで番人のようだ。

「たまあにこっち帰ってくると、安らぐなあ。仕事も忘れてさ」

「絵美姉さん、仕事って何してるの?」

 お、さりげによく聞いた秀兄。

「んー、普通のOLよOL。お水って誰が言ったんだか知らないけどガセだからね」

「誤解されるような格好するから……」

 と正美さん。

「いやあねえ、こんな田んぼばっかりの田舎だから、否応無しに目立ってしまうってだけで。東京じゃ全然、こんなの普通だからー」

 フきそうになった。たとえ東京にいても全然普通じゃないと思う。悪目立ちすると思う。田舎の上に都会の金メッキを塗ったような、とってつけたアイテムのけばけばしさが、アンナチュラルで……。

「絵美、お葬式なのに、昨日毛皮のコートでうちまで来て……」

「ちゃんと脱いでから葬式会場行ったからいーでしょー。あたしの純然たる私服なんだからいーでしょー。てかあれよりあったかいコート持ってないし。こっちがくそ寒いのがいけないんだよー。ていうかねえ、そもそも死んだじいちゃんのことだから、むしろ派手な格好の方がいいはなむけになるって。こんな、ダサいスーツよりさ。で、ケンタッキーのファミリーパック取り寄せてさ、宴会開いて……」

「バチあたりね、絵美」

 正美さんがくすっ、と笑った。ほほえましく、なのか、見下してるのか、微妙なラインの笑いだった……。

「……なんかこうさ、正美、ちょっと、所帯染みたよね」

「所帯なんてもってないよ?」

「でもさ、なんか、所帯染みたよ。年頃の若い娘っぽくないよ」

「もう私達年頃の若い娘じゃないって。二十六」

「ねーえ、秀、どっちが若く見える? 正美とあたし」

 絵美さんが髪をかき上げながら、後ろの秀兄に向かって、流し目で振り返った。長い睫毛はパチパチッとまたたき、かきあげた髪は長い爪の間をするりと通って、新しい毛流れを作りながら肩まで落ちていく。正座の崩れた脚はスリットから、さっき私が目撃した黒レースがのぞいている……秀兄にもきっと見えている。多分パンストじゃないストッキングの付け根についている、レースだ……こういうのガーターストッキングって言うんだっけ、ていうか何考えているんだこの人。

 当然のごとく詰まっている秀兄に、

「そんな、秀一君困らせないの」

 と正美さんが助け舟を出す。

「いやあ……、なんか、うーん……。分からないなあ、化粧の濃さとか全然違うし」

「何、あたしをケバいというのか!」

 絵美さんが肩の上にある秀兄の手の甲を爪でつねった。

「痛! 違うよ、ケバいんじゃなくて、大人っぽいって言うか……、でも正美さんは清楚な感じがして、それはそれで……まあ、その、二人とも美人だよ、うん!」

 あくまで中立を保つ秀兄。努力家だな。というか苦労しそう。というか苦労が好きそう。医者なんて最高に似合う。

 絵美さんは正美さんと同列に誉められたのが不服だったのか薄ピンク色の唇をキュッとすぼめ、でもすぐににかっと笑って、

「秀はいい子だねえー。うん、持って帰りたいくらいのいい子!」

と言った。

「ね、東京の大学受けるんだよね?」

「うん、そう。受けるだけ受けてみるよ。受かるか分かんないけど」

「ねえ、受かったら、あたしと一緒に住む?」

「えっ」

 絵美さんは腰をねじれるだけねじって、再び秀兄を振り向いた。今度はシャツがずりっとずれて、胸の谷間の切れ込みがもっと深くなる。一体何なんだろうこの人。

「そしたら、肩揉みしてくれるんなら、毎日おいしーいもの食べさせてあげる! 毎日!」

「東京なら理菜ちゃん宅があるでしょう」

 と正美さんが遮った。そうか、秀兄が東京の大学に受かったら、空いている我が家の和室を提供するかも、という話があったっけ。うちの両親と秀兄、ある意味、うちの両親と私以上に仲良いし、何しろ秀兄の第一志望校は家の一駅隣なのだ。絵美さんちに住む話より、ずっと現実的だろう……。でも、そうしたら、秀兄と住むのか、私……。

 しかし私の名前が出たのに私に話が振られないとは。私の無我も相当の境地だ。スパイどころか、宗教家になれるかもしれない。猫は脇腹を見せたアンニュイなポーズで横たわっている。少し痩せ型の猫の背骨は、まるでベッドでくつろぐ美女のように、くっきりとしたS字カーブを描いている……オスだけど。その腰の窪みに手の平をあてがって、なでてやる……猫は更に目を細め、やがて突如何かに観念したかのように勢い良く九十度回転して、腹を丸出しにした。あら、あられもない、という感じ。でも動物にあられもあるもないもないからただ私は、自由だなあ、と思う。それにしても一夜にして随分私に慣れたものだ。……腹の毛は背や顔や、普段見える場所の毛と違い汚れにくいのかふわっふわの真っ白、しかし生え方が雑というか、密度も一定じゃないし、方向も揃わず、好き勝手に生えている。その腹をひとさし指でくすぐると猫はくすぐったいのか指の当たるところをかばうように右へ左へ転げる。指一本でこの魅力的な毛のかたまりを操作出来るなんて楽しい。昔の秀兄となら一緒に住んでもいいんだけどなあ。

「というか絵美、そもそもちゃんと一人暮し出来てる? 料理とか掃除とか、ちゃんとやってる?」

「お、でました所帯発言。心配無用、ちゃんと暮らせてますよーだ」

「へえ、絵美姉さんって料理とかするの? 意外」

「意外とはなんだね君。私のひとさし指に電子レンジをチンさせたら、右に出る者はいないぞ」

「やっぱり、料理してないんじゃない絵美。そんなんじゃあ……」

「あーもー、うるさいなこっちの奴らは帰って来るなり結婚結婚って。まさか正美にさえ言われてしまうとは!」

「いや、まだ何も言ってないけど……」

「どうせ言うつもりだったろー。というか、正美の方は、どうなのさ」

「私は……料理は出来るよ」

「そうじゃなくてさ、相手は? 料理を作る」

「……」

「私は料理は出来なくてもごはんをおごってくれる男性がいっぱいいるんですーへへへん」

疲れた! と言って、秀兄が絵美さんの方から手を離してもとのポジションに戻った。顕在化し始めた二人の険悪ムードを、少しでも緩和するかのように。生真面目だなあ。というか、苦労人だなあ。というか、苦労させるなよなあ、二人のお姉さんたち。猫の腹をつつきまわす私の指の速度は増して、より執拗になる。猫はごろごろと気持良い程によく転がりながら着々とラリッている。ふかふかの前足の毛からニュウッと爪が伸びたり引っ込んだりする。私の指先を追う視線は、まるでバネの力で発射されたパチンコ玉のようにあちこちを飛び跳ねて、反射して、無駄だらけ、もはや私の指を追えていない。見えない快楽の飛んでった先を探しているみたい。見過ぎて何も見えていないジャンクなその瞳が、でも時折正気に戻って、私の指先をパクッと捕らえるから怖い。慌てて、爪の出た前足に挟まれた指をひっこめる。相手はジャンキーだけど、その分加減を知らないので爪やら牙やら野性やらを剥き出しで使ってくる。気をつけないといけない。怪我する。ひとさし指でつつくポイントを段々下のほうに動かしていると、綿毛のような体毛の中からピンと立った、皮膚色の、つまようじくらいの、柔らかそうな突起がのぞいているのを発見する。何かのレバーみたい。これは、猫の性器なんだろうか。小さいな。先だけ赤い。猫は顎を反らせながら、もはや私がつつくのをやめたのに自動的にごろごろし続けている。男の人がいっぱいいるならますます秀兄なんて引き取れないだろうな。

「まったく……絵美は東京で何してるんだか……って、心配してたよ親御さん」

「少なくとも毎晩、超! おいしいもの食べてるから、心配しないで! って言っておいてよ」

「……」

「でも本当はそんな上司やおじさまより、年下のほうが好きなんだけどねーあたし。ふふふん」

 と言って絵美さんが秀兄の頭をわしゃっとつかんだ。

「痛、爪が刺さるって」

「おー、いっぱしにワックスなんてつけやがってー」

 そのまま絵美さんは芋を洗うように秀兄の頭を乱暴に撫で続けた。絵美さんの動作のいちいちは、下手な人形使いに操られたマリオネット人形のようにくねくねとしている。秀兄の頭を撫でながら、首は傾き、手首も肘もへろへろと脱力、胴体は骨盤からぐらぐらして、くびれがひねれる。今にも秀兄にしなだれかかりそう。いちいち揺れる髪から香水の分子がこっちまで飛び散る。もうやだ。わざとらしい。でも私の閾値を超えさせたのは秀兄の目だった。無抵抗に撫でられるがままになっている秀兄の首は、出来損ないの重心の悪いオモチャみたいにぐらぐら、目は正美さんと絵美さんの間を決まり悪そうにきょろきょろ、口はしまりが無くにやけ、「はあ」とかいう笑い未満のださい息を口から漏らしている。最高に軽蔑すべき秀兄を見て、スパイであった私は、うっかり、数年分の嫌悪感を両目から一気に放出してしまったのだ。

 速やかにバレた。目が合った秀兄は慌てて口閉じ眉寄せ、顔中のパーツを真ん中に集めて「とりつくろった」。……。馬鹿じゃん。もうやだ。遅すぎるよ。勢い良くこたつに潜って、ついでに頭もこたつの中にしまい込んだら絵美さんの脚が秀兄の脚に絡んでいるのが見えた。なんだこの世界。自分の股ぐらの向こうの逆さまの風景、オレンジ色がシュール過ぎる、この画像は、あまりに嘘臭い。絵美さんって酔ってるんだろうか……? 外界から声がする。

「やだ、秀耳赤ーい、照れてるん?」

「いや、こたつあつくて……」

「絵美、いい加減秀一君からかうのよしなよ」

「何だよう、あんたの秀じゃないじゃんよう」

「あんたの秀一君でもないでしょう……」

「二人とも可笑しいって今日ー」

 また秀兄がへらへら笑う。私は、正座から前かがみになって、胸を膝につけたような、おかしな状態。そして膝の間から、鼻を突っ込んで、コタツの中を逆さで覗き込んでいる……。自分の匂いが蒸れて鼻先を湿らす。頭に着々と血が昇る。しかしこのひどく不恰好な体勢をキープしたまま真のスパイのように微動せずにいた。チェックのスカートのカーテンの先、自分のパンツと二本の脚にふ枠取られた、四角い小窓。その先の劇場には六本の脚。四本は肌色の薄い膜に覆われて、本物の人間の肌より滑らかで、しっとりとしている……ときおり何の意味も無くさわさわと動くそれら自体、何かの生き物のよう、というか、タコの脚のよう。私はタコの巣窟を覗いているようだ。そのうちの一本のつま先が、紺色の筒に覆われた汚い靴下の一本へと忍び寄り、つついたり、さすったり……紺色は無抵抗。自分の吐いた息がはねかえって顔が蒸れる。熱い。床についた頭の天辺が痛い。でも寸分も動かずに頑張る。絵美さんも秀兄も、私に見られているのに気付いていない。絶対にこのまま知られちゃいけない。頭にもふっとした物体があたって驚愕したが猫だった。ほうっておかれてすねたのか、私の視界に「入りまくってやる!」とでもいうように、こたつの中に躊躇なく入り、ど真ん中に腹を出して寝た。暑くないのか。猫の目にオレンジの光が落ちて飴色に濡れ光る。相変わらずラリッているのか、四方を囲む人間の脚が微動するたびに、その目、ぎょろぎょろと興味深げに追う。仰向けのままで横着している猫が横目を使うたび、目玉の端、卵の白身みたいな部分が見える。眼球が飛び出してしまいそうだ。

「秀一君、お腹空いた? 向こうからお寿司もらって来ようか? それか、私何か作る?」

「そんなあんたが気を使わなくてもさ、お腹減ったら自分で宴会場に忍びこんで何かつまむよねえ」

「うん、まあ……とりあえず今わりと腹減ってないから、平気だよ、寿司結構好きだからもうちょっとしたらつまみにいこうかな」

「秀一君って、どんな食べ物が好きなの?」

「うーん、牛丼」

「若いなー、秀」

「牛丼なんか家ですぐ作れるから、今度作ってあげるよ」

「お、正美さん、料理が出来るところアピールですか?」

「別に違うけど……」

「正美姉さんは料理うまいよね。こっち来た時はよく夜食つくってくれるよね」

「お、着々と餌付けされてるわけだ」

「そんな、餌付けなんかじゃなくて……、ただ、私も受験勉強大変な思いしたから、たまたま夜に離れにいる時に作ったりするの」

「ふうーんふうーん。」

 外界には絵美さんが意図的に落とした沈黙が落ちたようだ。気まずいのか秀兄がみかんを食べ始める音がする。くちゃくちゃ。……沈黙の中でその湿った咀嚼音だけがどんよりと場を繋いでいる時、こっちの世界は……。四本の肌色の脚のうちの、ふくらはぎまで黒い布に覆われた控え目な一本が、太腿まであらわになっている肌色の脚にいじくりまわされていない方の紺色に、そろそろと近づいてた……。正美さんの脚。そのつま先、紺色の太腿の、ぎりぎりまで、じりじりと伸びていった。そして、まるで臆病な生き物が知らない物体の感触を試すかのように、足の親指が、おじぎするようにぽきりと折れて、点で触れた。二つの脚の接触点が生まれた時、自分の肌全体がじとおっと重く湿るような、嫌な感じが染みた。でもその目、その脚から離すことが出来ない。そのうち、肌色は警戒を緩めた生き物のように紺色に少しずつ寄り添い、やがて、全部がぴたっと、吸いついた。そしてもう、まんじりとも動かなくなった……。酸素が足りなくてもうろうとする私の頭に、身体中の血が集合して、でも同時に冷え冷えと冴え渡っていくような、不思議な感覚を知った……。その艶かしい足先をかっちりと瞳に捉えながら私は自分があることを知っているのを思い出した。私が母屋を抜けてこの離れに入った時、すでに玄関には二足の黒パンプスが並んでいた。ひとつは片隅に行儀良く、とんがったもうひとつは奔放に脱ぎ散らして。だけど昨日の夜、母屋の玄関の薄汚れた巨大な下駄箱の隅の隅、隠すようにしまってあったのを、見つけてしまったんだ、私。紫色でレース柄の、すごく上等そうな箱にそそられて、開けてしまったんだ。埃っぽい靴箱の中で殺人事件みたいに鮮血色が咲いた。赤いハイヒール。箱はボロボロだけれど新品同様だったあの靴。こんな田舎で、一体いつ、誰が履くんだろうと思ってた。間違い無い、この人だ。この人、二足の靴を履く。

 紺色の二本の筒は動かなかった。二本を別々な二本に支配されて、責めも守りもせず無抵抗にしていた……けれど秀兄の脚、正美さんの健闘に応えるように突然動いて絡まった。乱暴な動物が餌とるみたいだった。くちゃくちゃという咀嚼音が、むしろアリバイみたいに大きくなる。私の心臓も二つになったように倍速で打つ。秀兄の脚は、正美さんの脚の真ん中を膝でがっちりとらえている。もうやだ。ズボンの裾から見える巻いたすね毛が嫌だ。汚い。くちゃくちゃ下品にみかんを噛む音が嫌だ。というかこたつにみかんが置いてあること自体嫌だ。秀兄大学全部落ちろ。東京来るな。正美さんといちゃいちゃしてろ。田舎のほうが中絶率高いんだから。

 真ん中にいた猫、秀兄の突然のその動きに目玉をらんらんとさせた。おもちゃを見つけたと思ったのか、思いっきり飛びついた。

「ギャアッ! イダア!」

 外界から聞こえてきたのは秀兄ではなく正美さんの悲鳴だった。瞬間的に外界に首を出しながら、私はその叫びの中の異様さを聞き取っていた。まるで、やましい人が警察に声をかけられた時のような。立ち上がった正美さんの脚には真っ赤な爪跡がつーっと一本、美しい肌のようなストッキングは大きく裂けて、肉のような肌が縦に露出していた。赤い筋はみるみる間に太く、罪悪感のように血が滲んできた。

「あー、トム、いつの間に中にいたの! もう、ストッキング破けちゃったじゃない。勿体無いなあ、今日おろしたばっかりなのにー」

 すごく大きな声で正美さんが言った。そんなことはどうでもいい癖に、と私は思った。絵美さんと秀兄はほっとしたような顔をしながら「そんなことより血が出てるよ、平気?!」とか「あたし替え持ってるからあげようか?」とか親切なことを言っている。もう一度こたつの中を覗くと猫はちっとも悪びれず、というかむしろ堂々といた。もうラリッてなくて、スフィンクスのポーズで前を見据えながら裁判官みたいに正気だった。昨日の夜覗いた尖ったヒールと、猫の性器、色も大きさも違うのに、なぜか同時に思い出して、似てるなあ、と思った。

2008年 / 15,508字(44枚)

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