プルメリア、カシスローズ

 バスルームから彼女が姿を現し、髪から立ち上るその香りのひとすじが、私の鼻先をなでた。

 その瞬間、刃物の切っ先を突きつけられたように、私の目はいっぱいまで見開かれた。刹那遅れてやってきた、裏切られたという自覚が、全身に怒りを巻き起こし、四本の手足がバラバラに暴走しそうになった。はじめに思ったのがお金の損失のこと。……でもそんなことを一番に思いついた自分を卑しい、と恥じる気持がすぐ追いかけて来て、それはつまり、自分のいとおしいものを、それと気付かず無神経にドブに捨てられたことで受けた自尊心のダメージが、お金という数値の形であらわれたにすぎないのだ、というように読みかえられていった。

 私は、何か叫び出してしまいそうな唇を真空パックのようにぴちっと閉め、口の端の震えを、遙に悟られないように苦心した。なのに目は最大限に見開き、香りの源、遙の濡れた髪――いつもよりこころなしかつやつやしている――を捕捉して離さなかった。そうして目からだけ怒りを放熱させながら、なんとか全身を冷まして衝動を食い止めていると、彼女がのんきにのたまった。

「薫ってハミガキ粉まで詰め替えるんだね。驚いちゃった。可愛いピンクの外国製のパッケージだから、イチゴの味でもするのかなあ、と思ったら、塩味なんだもん。あれは絶対『ムーンスター 爽快塩みがき』だよね」

 甘ったるさがまとわりついてくるような遙の話し方。やって来る言葉を、うるさい、と言って、蚊みたいに払い落としたくなる。爽快塩みがきじゃないと昔から磨いた気がしないんだ、おばあちゃんの好みに合わせて我が家のハミガキは昔からこれ、私は生まれた時からこのハミガキを愛用させられていたのだから。でも、パッケージがスーパーの広告みたい、トリコロールカラーで書かれた「ハグキ健康!」という文字がでかでかと横断し、まるで下劣だから、フランスの化粧品メーカーの保湿クリームが入っていた大きいチューブにわざわざ毎回せっせと詰め替えているのだ。それくらい、私はこのお部屋のどんな些細な脇役までにも、神経を行き届かせ、自分の周りを美しいもので埋め尽くせるように心配ってきた。なのに、そこに闖入して来たこの豚は……。愚鈍だけどあたしには従順な、可愛い犬だと思っていたから、入れてあげたのに……。

 彼女のことを蔑む気持はアクセレレートして止まらない。しかし遙は自分の横顔に浴びせられている侮蔑の視線に気付きさえせず、なついた犬みたいに無防備に私の近くに寄ってきて座り、

「これ、使っていいの?」

「どうぞ」

 化粧水を頬に叩きつけはじめた。ぱちゃぱちゃ、という音の無邪気さにイラっとくる。すっぴんの彼女の眉はマンガに出てくるヤクザみたいに点線になっていて、もとから薄い彼女の顔をさらに薄弱にしている。短い睫毛はマスカラとカールがすっかりとれ、一重まぶたの肉にのしかかられて、斜め下にまっすぐ伸びていた。いつもはその短い睫毛を、悲壮な努力が偲ばれるくらいにいじらしく、天にむけて、垂直に、反らせ上げているのだけれど。彼女のすっぴんはぶさいくではないが滑稽だ。彼女の髪が揺れ、またその香りが私の鼻孔をついた。

 こんな女にあのシャンプーを使われてしまったなんて。

 怒りは私の内なるいくつの想いに反射して、勢いを与えられながら何度も転がされ、ねちねちと増幅していく。辛いものを食べたときのように腹の底から、圧力のある熱が沸き起こる。それが私の顔の表皮に立ち上ってこぬよう、喉元で必死に堰き止める。すでに初期衝動がおさまった私の目からは怒りの色は冷め、口の端も固定の位置に戻り、左右均等な微笑が形作られているはずだ。

 私は怒りを、さも無いかのように包み隠し、仮面の微笑で自分をパッケージングする。まるでこの、美しいものと愛しいものだけで敷き詰められた完璧なお部屋のように。汚いものは綺麗な容器に詰め替えて、押し隠す。



 私のこのお部屋に今日、遙と京子が訪れたのは、

「大学生になったんだから一度一人暮しの友達の家に集まって夜中までガールズトークがしてみたい」

 という京子の発案がきっかけだった。

 サークルのメンバーが他にもニ、三人くるはずだったのだけれど、今日になってドタキャンが沢山あったので、結局来たのは遙と京子だけだった。その京子も妙に厳格な子で、「泊まっていきなよ」と頑張るあたしに最後まで屈せず、

「朝帰りした時の、睡眠不足で迎える密度の薄い朝が大っ嫌いなの。一日丸々どぶに捨てた気になって、すごく後悔する。それが嫌だから、帰る」

 と言い張った。こうなった京子は説得不可能と諦めた私は、黙って対話の行方を見守る遙の方に振り返り

「遙は? 明日、朝早いの?」

 とにこやかに微笑みかけた。心のうちでは、京子が帰ってしまうのですっかり気落ちし、遙なんてお呼びじゃない、帰れ帰れ帰れ帰れ、と呪詛を唱えながら。遙はまごまごした。なぜだかそれをみていると私は、さっきの自分の言葉におなざりの社交辞令めいた冷たい響きが混じっていたんじゃないかと無性に怯えて、

「泊まっていきなよ!」

 と遙の肩を叩いてしまった。……だって、京子に「冷たい子」って思われたくなかったのだ。

 遙は待ってましたとばかりにだらしのない安堵の笑みを浮かべ、

「じゃあ、うん。泊まっていっても、いいかな?」

 と私を見上げたのだった。

 ……でももしかしたら遙が泊まるということはそんなに悪いことではなかったのかもしれない。京子は服も顔も可愛くて、話も面白い利発な子だから、私は一番の友達だと認めているのだけれど、利発な分やや毒舌で、先述の通り頑固に正直だ。このお部屋に溢れる、私のお気に入りのものたちの自慢話を、水をささずにただひたすら気持良く喋らせてくれるのは、京子ではなく遙だ。

 遙はサークルの一年生の中でも顔の作りだけだったら可愛い方で、ただ、ともかく垢抜けていなかった。東京の大学に受かって上京してきたばっかりです、と全身で主張しているとばかり、化粧はファンデーションとリップクリームのみ、ヒールも履かず、毎日ジーンズにスニーカーという井出達。田舎の空気を、そっくりそのまま身体の周りに纏って上京してきたのではないか、というほど、どんくささが全身を固めていた。そんな風だったので私もはじめは、遙が視界に入ったらこっちの方が恥ずかしくなる、さりげなく眼球を動かして視界から外してしまいこそすれ、自分から近づいていこうとはさらさら思わなかった。ところが、向こうの方が、近づいてきたのだ。サークルの練習が終わると、まるで気になる男の子に話しかけようとする中学生みたいに、

「適応行動論の課題、やった? もしまだなら、先輩から去年の解答例をもらったんだけど……」

 とか

「今日の薫ちゃんのトップス、可愛いね」

 とか、あらかじめ考えてきたセリフを携え、私のもとへ、おずおずと近寄ってくるのだった。私が、

「ありがとう」

 と言って鉄壁の微笑を与え、彼女が一生懸命灯した会話の火種を一瞬で吹き消してしまっても、遙は、私のもとを離れずもじもじしているのだった。そのタフさは、彼女の努力を瞬殺してしまった私の頭に、ちょっぴり後悔の念をちらつかせてくるくらいだった。

「……このトップスは先週、渋谷のマルイで買ったの。バーゲンだからお買い得だったんだ」

 と会話をつないであげると、

「そうなんだ、すごく可愛いよね。薫ちゃんはいっつも、おしゃれだよね」

 とひたすら愚直に誉めてくるのだった。

 そのどんくささによって、一瞬で私を中心として出来上がったサークル一年女子の輪に入りそびれていた遙は、どうにか遅れを取り戻そうと必死だったのだろう。サークルの飲み会でも、いつの間にか私の付近をマークし、私の隣や向かいの席を確保していた。なのに積極的に話しかけてくるのでもなく、私の慈悲、話しかけてくれるのを待つように、少しうつむきながら上目遣いでひたすら、皆の話に頷いていた。薄っぺらくて主張の無い遙の身体のどこからそんなヴァイタリティが生まれてくるのか、すきあらば私の近くに滑り込ませていく身体の押しの強さと、引っ込み思案な口先が、アンバランスで滑稽だった。顔は可愛いんだから堂々としていればいいのに。

 とりあえずそんな風に、物理的に私の近くを確保しようというけなげな彼女の試みが実を結び、彼女は今日このお部屋にお邪魔できる運びとなったのだ。だって、京子がこの集まりを発案したとき、やっぱり彼女は私の隣にいたんだから。押し黙った彼女に、私はやっぱり「遙も来る?」と言わざるを得なかった。彼女の物言わぬ身体の存在は無視するには重過ぎたし、なによりやっぱり京子に嫌われたくなかったのだろう。私の言葉を聞いた遙の顔はぱあっと華やいだわけでもなくただほのかに顔を上げ頬をゆるめただけだった。地味な花が咲いたようだった。私はそれを見た瞬間残酷な喜びが染み渡るのを感じたのだった。

 自分から喋らない彼女はそのかわりにただ私のいうことを全肯定してくれる。私は京子が帰ってしまったことで大いに気落ちしていたけれど、そのことに思い当たって、気持を立て直すことにしたのだった。

 私は自分の部屋に独りでいる時よりも気が大きくなっていた。お気に入りのものたちで埋め尽くされた私のお部屋。テーブルや棚やオーディオなど大きな家具はグレーや黒などモノトーンでまとめ、クッションや小物入れなどで濃い目のピンクをとり入れ、アクセントをつけている。所々大好きな花柄や水玉模様が咲き乱れているけれど全部ピンクで統一しているので乱雑な感じはしない。今日に備えて、装丁から極彩色が飛び出す少年マンガ達は景観を乱すため押入れに監禁、ファッション誌とインテリア誌、あと文庫と新書はシンプルで無害なので残した。こうして見ると、男っぽいシルバーの本棚に同時に並べられたニーチェやら川端やら太宰やら固めの本と、「ゆる、ふわ、モテ」などキャンディーカラーの見出しが並ぶファッション誌や、ヴェルサイユ宮殿から抜け出てきたみたいな香水のボトルが、中和しあって、危うい均衡を実現している。知性と痴性、というか。我ながら、よく出来た部屋だ。そしてその真中に背中を丸めてちょこんと座る遙。片付けを始めているのか、テーブルに連立したチューハイの缶をいちいちフラスコのように振って中身の有無を調べたり、特大の烏龍茶のペットボトルを空にしようと両手でグラスに注いだりしている。

 今日の遙は、袖と裾がくしゅくしゅっとした白のカットソーと、花柄のシフォンスカートを身につけていた。今は脱いでいるけれど、脚にぴったり添う素材の、格好良いジョッキーブーツを履いてきていた。どれも私が一緒に買い物に行って、おすすめしたもの。遙は「似合うかなあ」なんて言いながら私が似合うと言ったものは全て購入した。そう、はじめは遙のことを「うっとおしい」とだけ思っていた私だけれど、遙が私に近づいてきたのは、サークルに馴染みたい以上に、私への憧れのためだったのだと気付いてからは、変わった。私のことをひたすら信奉し従順に受け入れる彼女の中に、私のお話と、趣味と、思想を注ぎ込むことの楽しさに目覚めてからは、うっとおしい、は、いとおしい、に、変換を遂げたのだ。

 遙はすっかり私のお友達になった。贅肉のようにぽよんと彼女を包んでいた田舎臭さは私とのお出かけの度ごとにこそげ落ち、本来の顔立ちの良さをきちんと発揮していった。ハイヒールや七分丈で肌を出すことを教えると、今まで履いていたスニーカーやジーンズは野暮ったさと共に潔く脱ぎ捨て、肌と一緒に、彼女の一番の武器である身体の華奢な線をきちんと見せていった。今、私のお気に入りのモノで溢れた部屋の中に、私の好みのお洋服に包まれた、私のお友達。

 胸が詰まるほどのばら色の充足感にむせびながら、気付いたのだった。「この部屋は私以外の人間に見られることで完成する、それも、私のことを崇拝しきっている、遙のような女の子に」と。

 上機嫌になった私は、珍しく多く飲んだお酒のせいもあって、何か喋りたくてしかたなかった。

 とりあえず愛読書だけが並ぶ本棚を見回して、

「最近は童話にハマってるんだ。特にグリム童話。……童話の世界って、魔法とか妖精とか出てくるから突拍子のないファンシーな世界だと思っちゃう人も多いんだけど。違うんだよね。勧善懲悪と二項対立、厳密な因果関係が支配する、超・論理的な世界なんだよ。だから、リアリズム小説を読み疲れた時に読むと、スカッとするの。悪くもない人が死んだりしないし、心が綺麗な人は見かけも綺麗だから、分かりやすくてラク。ちゃんとオチがあって、教訓もあって、テーマも明確だしね。……例えばグリム童話だと、どんな話が好き?」

 私は質問しながらも大して答えに期待もしていなかったので、

「うーん」

 と考える遙の姿に目をとめることもせず、最近揃えたグリム童話全集、全集といっても図書館で埃をかぶっているような分厚くて重ったるいものではなく、文庫で十冊に分かれているバージョン、最近出版されたレトロながらポップな愛らしい装丁、オリーブグリーンの地の色にクリーム色の蔦が這い、赤色でタイトルが描かれた、手触り滑らかなその文庫を手の平で転がしたり、意味なくぱらぱらめくったりしていた。

「……人魚姫が好きかなあ?」

「それはアンデルセンだね。アンデルセンも嫌いじゃないけど。遙はなんで人魚姫が好きなの?」

「うーん」

 また遙は予想通り悩み始めた。遙は私の喋りに頷く専門で、質問に答える方はてんでだめだった。お洋服は変わっても脳みその中は相変わらず、田舎の時間が流れている。それにしても遙の前で一方的に喋り散らしたいくせに、わざわざその流れを止めて質問を投げる私は、新しい愉しみを見つけているようだった。私の得意分野で遙に質問をふっかけ、遙の平凡な返事に、薀蓄たっぷりなコメントを返し、遙を巻く。同じ、脳みそを使う遊びでも、京子と芸術論をたしなむときのように、自分の脳みその回転速度を限界まで上げ、エスプリの効いたコメントをひねって相手を唸らせあうような緊張感はまるでない。京子との時は二人ともどんどん賢くなっていく気がするけれど、遙と喋るのはむしろ退行的な感じだ。私は既に知っていることを見せびらかすだけ。遙は鵜のみにするだけ。

「うーん……なんとなく好きなの。多分、ハッピーエンドじゃなくて、王子様に裏切られて、泡になっちゃうっていう悲しい結末が、なんかリアリティがある気がするからかも」

「そうだね。童話では、白雪姫とか眠れる森の美女とか、美しい姫と王子が出会って恋して結婚して、以降末永く幸せになりました、っていう構造が多くて、要するに王子というのが幸福の即物的なメタファーになっていて記号的存在でしかない。それはとても童話的なのだけれど、人魚姫はそうではなくて、人魚姫は王子様と一緒になってからの話がちゃんと描かれているからね。だからある意味あんまり童話的ではない話かもしれないね。でもアンデルセンの中でも親指姫とかまでいっちゃうと、ナンセンスが過ぎて、さっき言った童話の厳密さのかけらも無くなってしまって、好きじゃないの。親指姫、詳しい話知ってる?」

「ううん。親指くらい小さいお姫様が出てくるんだって事くらいしか、知らないの」

 語尾にくすりと小さな笑いをこぼれさせながら、遙は言った。遙は知らないことを「知らない」と、申し訳なさそうに言うのが得意だ。多分プライドが無いからだろう。遙の自信の無さは、遙自身も気付かない媚びを、瞳に含ませている。自分の可愛さに気付いていない遙の奇跡だ。男の子だったら、こういうのはすごくいいのだろう。

 私も、恐らく多くの男子がたどるのと同じ気持をたどって、「もっとこの子に教えてあげよう」と思ったのだった。

「親指姫、面白くないから読まなくていいけどひどい話だよ。あれは童話ではなくただのナンセンスストーリー。でも人魚姫も通常の童話だととって、だたの教訓話って読んでしまうと、あまりに切なすぎるよね。『男を信じても裏切られるだけだ』ってことになるから。結果的には泡になっちゃったけれど、声の喪失とか、尾ひれの喪失、つまり家族に会えなくなるんだから幼少期への決別ということの象徴だと思うんだけど、あれほどコストを負うことを厭わないくらい、王子を好きになれる人魚姫の愛情は賛美されるべきで、それを否定する教訓で解釈しちゃいけないと思う。……私、安易に自己犠牲の死を持ち出して、例えば交通事故が起きて恋人をかばって死ぬとか、そういう安っぽい突発的なイベントをもちだしてきて、お涙頂戴をする話って大っ嫌いだし、そういう話で反射的に涙を流す人も大っ嫌いだけれど、人魚姫はそんな話じゃないと思うよ。生きたいっていうエゴ、でも王子様を生かしたいっていう葛藤の上、最後に自分の意志で死を選んだんだからね。しかも彼女は『私は王子に何も知らせぬまま、王子に罪悪感を残さずに、王子を生かすために死ぬんだ』というプライドを守って死ねたんだから、やっぱり安易な自己犠牲じゃなくて、話の展開として必然性があるよね。高貴で美しい、エレガントな結末だと思う。……本当に恋愛したら、相手を束縛なんかしたくないと思う。むしろ自分がいることによって、相手をもっともっと自由にしてあげたいって、思う。無条件で自分を全肯定してくれる人間がいるって事で、大分、相手にとって自尊心の下支えになるからね。そのために自分が多少不幸になってもいい、コストを負ってもいい、相手の隣にいることで自分が得られる幸せがほんの一瞬でもあればいい……って思うはずだよ。その究極が、相手を生かすために死んだ人魚姫だと思う。だから人魚姫からあえて教訓を引き出すとすると、『どんなに犠牲を払っても、しかも、どんなに見返りを得られなくても、幸せな恋愛というものはある』ってことになると思うな」

 薀蓄話から人生論、典型的な酔っ払いの会話パターン。でも私は恥じるのも忘れてだらだらと喋っていた。だって遙は神妙な顔を作り、この長台詞の一文ごと、まるで話に句読点を打って区切りをつけていく役目を持った機械みたいに、頷き続けていたのだから。

 私が一息つくと、

「薫ちゃんってやっぱりすごいね。私、お話を読んでもただ、好きだなあ、とか、切ないなあ、って思うだけで、結末の必然性とか、メタファーとか、考えたこと無かった。すごく深く考えてるんだね」

 遙が言った。私は

「こんなのよくある物語解釈論の受け売りだって。こんなんでマかれちゃ駄目だよ」

 と苦笑しながら、ああこの子は私を不自由にしないな、と思った。

「サガンは『愛は束縛』って言ってるけど……」

 調子に乗って、私は読んでもいないけれど並べてあるサガンの『愛は束縛』、背面はこのお部屋のテーマカラーの色濃いピンク、表紙はベルナール・ビュフェのヴァイオリンとトロンボーンをモチーフにした版画で飾られている、洒落た文庫を、人差し指でつまみだし、手の平でもてあそびはじめた。もはや酔いの勢いだった。

「愛は、相手を束縛するんじゃなくて、むしろ自分を束縛するものな気がするよ。サガンは読んだ?」

「ううん、まだ。……ごめんね、ずっと勧められてるのに読んでないの」

 私がいつもサガンサガン言っているので、遙は少し申し訳無さそうな顔をしていた。私はにっこり笑った。遙は速やかに安堵の色を浮かべた。ほんの少しの私の所作がこの子の顔色をコントロール出来ることを知ることが私をまた心地よくした。まあ、私が笑ったのは申し訳なさそうな遙の顔をほどくためではなくて、またさっきのゲームができるな、ということだった。むしろ遙が「読んだ」なんて言った方が、私は気分を害したかもしれない。とにかく遙が私の笑みを好都合に解釈してくれたので、私はどんどん、いい人になる気がして、またまた調子をよくした。

「サガンなら私は『ある微笑』が一番好きかな。あらすじはこの前話したよね」

 遙はうなづく。

「あらすじは、本当、二十文字で説明できるくらいの平凡な話なのに、一秒ごとに変わる細かい細かい感情の機微を、丁寧に丁寧に追ってるから、立派な一冊の小説になってる、むしろ驚くほどドラマティックだよ。……恋愛って自分にとっては重大イベントだけど、他人にとっては、友達が振られたなんて、ありふれた出来事じゃない。サガンも、そして主人公もそのことを痛いくらいによく分かっているから、失恋のことを誰にも相談せず、耐えるんだ。誰かに言うことで、自分の恋愛を、よくある消耗品に貶めたくなかったんだろうね。『小説は実存主義と構造主義の対立だ』って三田誠広が言ってたけど、サガンはそんな哲学用語で枠どらなくても、十八歳でそのことを本能的に分かってたんだと思う」

「十八歳?」

「うん、確か。私達と一緒だね」

「それでデビューしたんだー」

「まあ、ある意味サガンの小説って、そこらへんの女の子たちのグチグチしたガールズトークと内容は同じだと思うんだ。でもそれを芸術に昇華したサガンって、同じ歳とは思えない」

「すごいんだねー」

「ね。だって、私がいつも遙に話してる庸平のグチとか、そういうつまんないレベルのものを小説にしたんだよ?」

「薫の話はグチなんかじゃなくて面白いよ……?」

 遙はもじもじして言った。遙は場違いなところで突然話をせきとめ、せっぱつまった好意を押し出してくるので、ときたま、うっと首が詰まる気がする。でもそれは決して悪くない感じなのだった。

 私は何でも感心しながら聞く遙に気を許し、他の人には話さないことも話すようになっていた。それは堂々巡りの彼氏のグチや、京子に話したら一瞬で喝破されるだろう、自分のみっともない感情を、自尊心と学術用語で粉飾したものだった。それでも遙は、私の話の質の悪さなど気付きさえしない、というように熱心に耳を傾け、相槌を打ち続けることで、私の話にはずみをつけていくのだった。結局、私の彼氏のことを一番よく知っているのは京子ではなく遙なんじゃないだろうか。

 そんなぐだぐだした話を面白いという遙は、よっぽど私の自尊心の下支えになっている。

「少なくとも小説にはならないでしょ」

 声の震えを吹き飛ばすように、私は鼻でふん、と苦笑した。

「でも、うん、なんていうか、私、彼氏いたことないから、そういう話、参考になるよ」

「参考っていうか反面教師じゃない?」

 意地悪く言うと、遙はちぎれんばかりにぶるぶると首を振った。

「……吉田君のことも、束縛したくないって思うんでしょ?」

 覗き見るようにして遙は聞いてきた。その視線は、じっと焦点をずらさず、私を見定めるようなかんじがして、私はびくっとした。

「うん、まあ、ね。ケータイをチェックしたりは絶対しない。電話とかメールもかなり少ない方だと思う。……ずっと一緒にべったりいると、今のままのお互いを肯定しあって馴れ合って、退行してく気がするんだよね。そんな甘ったるいだけの関係じゃなくて、お互いがお互いを向上させていくのが理想だから、会わない時間で成長しておきたいし成長して欲しいよ。極端な話、庸平が女の子と勝手に二人で会っても、別にイヤじゃないんだ。事後報告も要らないし」

 たじたじとして早口で言うと、遙はもうさっきの目つきをゆるめ、

「いいなあ。信じてるんだねっ」

 と言った。

「信じてるって言うか……自分のプライドがケータイチェックを許さないって言うだけだよ」

 と返しながら、遙は私をとことん甘やかすなあ……と思った。

「……薫も、自尊心を支えられてるの?」

 遙がこんなに質問するのも珍しい気がした。

「うん、まあ……ね。なんであんなパーフェクトな人が自分のこと好きでいてくれるのかって思うこともあるよ」

「ふうん」

 遙の笑みがいつもの、はにかむような、口角の上がりきらぬ、中途半端に歯ぐきをみせる笑みではなく、逆への字に口角を吊り上げた妖艶な笑みで、なぜか記憶にこびりついた。

 私は彼女の笑みから目をそらしたくて、部屋を見まわした。

 本とかCDとか買いたてのお洋服とか、自慢したくなるものはいくらでも目についたが、どれも手に取ろうとしても指先に力がはりつめず、指を出す前に気持が萎えてしまうのだった。自慢というのも、自分の中がエネルギーで満たされていないと出来ないものらしい。

 私は立ち上がり、アロマオイルをつけるためにライターを擦った。そのザリッと金属の擦れる音に、遙はびくっと反応した(彼女には臆病な仕草が似合う)。遙にとっては聞き慣れぬ音だろうけれど、でも私の耳にはしたわしい音だった。庸平が煙草を吸うから。

 私の一番のお気に入りのカシスローズの香りがふわんと浮き上がり、自分の中が充填されていく気がした。

「私ねえ、鼻が異様に良いんだよね」

 そしてまた自慢話をする元気が出る。

「そうなの?」

「うん。小さい頃からママが洗濯用の洗剤変えると必ず、気付いてた。小学校の授業参観の時なんて、一度、香水と化粧の匂いでむうっとした教室で、気持悪くなっちゃって、保健室にかつがれたことがあるくらい」

「へえ! 鼻良いのって羨ましいけど、そこまでいくと大変だね」

「鼻良いのって、羨ましいかなあ?」

「うん。なんか、鼻に限らず、感覚が鋭い人って格好良い」

 遙はかなり無理矢理にでも私の美点を見つけてほめそやすところがあるけれど、わざとらしいかんじがしない。本当に下心なしでやっているのだろう、というかんじがするのだった。……少なくともどんくさい遙は、本当に、感覚が鋭い人に憧れていそうだった。

「遙は鈍感だからね!」

 私は意地悪をしたくてそう言ってみた。

「うんそうなの。鼻とかも全然利かないし、今薫がつけたのが何の香りかも全然分からないし」

 遙は笑った。せっかく棘をだしてみたのに手応えが無くて、失望した。豆腐をフォークでつつくみたいだ。

「これはカシスローズだよ。ただのローズは、ひたすら甘ったるいだけで、クドいから嫌いなんだけど、これはカシスが入ってるからちょっと辛口。私、人間でも本でも何でも、甘いだけのが嫌いだからさ」

「その容れ物可愛いね」

 白い陶器で出来た、兎と薔薇のレリーフが浮かび上がっているキッチュなロココ調のアロマポッドを指して、遙が言った。私は香水とアロマ――香り関係のものは女のコらしい小物でまとめることにしている。だって香りは本能に訴えるもの、深層心理に働きかけるものだから、そこが男っぽいものだと心までがさつでガサガサになる気がする。

「私なんか、鼻がきかないから逆に香水とかもつけすぎちゃうんだよね……」

「香水、つけるの?」

 香水は私は教えていなかった。

「ううん、つけすぎが怖くて、逆に全然つけなくなっちゃった。最近はしてないよ」

 遙が香水をつけたことがあるなんて、なんだか意外に思った。私と会ったときにつけていたことは無いから、多分大学より前の話だろう。誰が教えたんだろう。

「誰かに香水でももらったことがあったの?」

 別に大して興味は無いけれど聞いてみた。

「ううん、ママのをむかーし、ちょっと借りてみてたってだけ」

 遙はまた、口を閉じたまま口角を上げる、一瞬だけ妙に艶っぽい微笑み方をして、そうするとひょっとしたら私より可愛い気がして私は……また急に喋る気がしなくなった。私が黙ると、遙も全然喋らない子なので、必然的におしゃべりの無くなった部屋の中を芳醇なカシスローズの香りが満たしていった。でも鼻のよくない遙にとっては芳醇というほどではなく、あまりにかすかな香りだったのかもしれない。手持ち無沙汰なのかテーブルの上の掃除を再開し、カチャカチャとグラスとアルミ缶の当たるざらついた音が私の耳についた。

「いいよ私やるから」

 反射的に飛び出た私の言葉はカチャカチャという金属音より冷たくて驚いた。あわてていつもの声に戻して

「お客さんなんだから、気使わなくていいんだよ遙。それよかお風呂入ってきなよ。もう十二時だし」

「うん……ありがとう」

 私はいそいそと立ち上がり、衣装ケースから、白地にピンクパンサーのイラストが入ったポップなロンT、パジャマにするにはちょっと勿体無いくらい新しくて可愛いやつ、と、黒字に細かいピンクの水玉が入ったルームウェアのボトムスを選び出して、遙に手渡した。

「上がったらこれ着てね」

「かわいーねー」

 条件反射のごとく、遙の口からその言葉が飛び出た。

「でも、こんなに可愛いのじゃなくて、もっとパジャマっぽいのでいいのに」

「この前全部古い服捨てちゃったんだ。だから気にしなくていいよ」

 嘘だった。でも遙に自分の部屋のほころびなど見せたくないから、それでいいのだ。

 バスタオルを取りに行った。柔軟剤入りの洗剤を使っているので、ふんわりしている。白から濃いピンクまで、グラデーションで四種類の色が揃っていて、薄い〜濃い順になるように並べて洗濯機の上のラックに置いてある。

「どれがいい?」

 と聞いたら

「どれでもいいよ」

 と返ってきた。そう返ってくるに決まっているのになんでそう聞いたんだろうと思いつつ、私は二番目に薄いピンクのバスタオルと、二番目に濃いピンクのフェイスタオルを取って、組にして遙に渡した。

「あと……、メイク落としはこれで、洗顔はこれね。ボディソープとシャンプーはこっちの棚にいろいろあるから。適当に使っていいよ。タオルももっと必要だったら、こっからとってね」

「うん、ありがとう」

 懇切丁寧に教えているのは実は面倒くさいからだった。遙はものを頼むのが極端に下手な子だ。もじもじ言い出せない、もどかしいかんじを見ていると、私はイライラしだすので、そうなる前に先回りして全部情報を与えておくほうが、結局楽なのだった。親切している気になって私の気分も良くなる。

「化粧水と乳液はリビングにあるから、出たら貸すね」

「うんありがとう」

 私は大分カシスローズの気配が濃くなった室内にひとり戻り、ベッドに身体を投げ出して、酔いが私の身体を通りすぎるのを待った。ああ、一杯喋ってしまった、酔っていたというのもあるけれど、遙がもっと話して欲しそうな目でじっと見つめながらうんうん、とタイミング良くうなづいて、理性のブレーキがかからなくなってしまうんだ。京子の前じゃ格好悪すぎて、死んでもしない量の自慢話をしてしまった、でも後悔という気にはならない、たまには自分を甘やかし、相手のことをまったく気にせず無遠慮に喋るのも、ストレス解消になっていい、遙だって楽しそうに聞いてるんだし、でも遙は私の言うこと半分くらいしか分からないで聞いているのだろう、構造主義なんて知らないだろうし。……白い天井を見つめながら、眠いのと酔ったのでもやもやする頭の中で、思考を泳がせていた。天井は何も無いから、まだ開発の余地がある。ポスターか何かを貼ってもいいかもしれない。

 からっぽの天井を見つめていたら、テーブルを片付け始めた遙に対して抱いたイラッとしたことが、ぽかんと浮かんできた。何故あの時あんなに・・・遙が野暮だったから? 私がアロマを焚いていい気分だったのに……そうだ片付けようテーブルを、とにかく、イライラするのは隠さないといけない。遙の前では私は趣味もセンスもファッションも上をいってる、憧れの女の子でいないといけない。

 テーブルを綺麗に片付け、濃すぎになったアロマの火を消し、化粧水と乳液をテーブルに置き、再びベッドに身を横たえた。遙が出るのを待ちながら、少しだけまどろんだ。しょぼしょぼと勢いの無いシャワーの音が聞こえるともなく聞こえ、つつましい、というか、遠慮がちな様子が、遙らしい、と、眠りの浅瀬を泳ぐ意識の中、思うともなく思った記憶がある。

 時計を見ると十分くらいか、私は、電気の光がまぶたの裏を明るく焼くのを感じながら、夏の海のような夢を見た。シャワーの音のせいだろうか。目を開くと、眼球の奥底を電灯の光が貫くように眩しく不快感を感じた。

 ベッドに座り、風呂場の扉を凝視しながら、また五分くらいぼうっとしていただろうか。

 しかし、その扉が開き、風呂場から沸き立つ香りが湯気と共に私の鼻先へ届いた時、緩慢な眠気は、驚きと憎しみに、一瞬で押し潰されたのだった。

 

 初期衝動を押さえきった私は平常心を顔に着込み、遙のつむじを見下ろしていた。ベッドの縁に腰掛ける私と、低いテーブルの前に正座する遙の今の位置関係では、丁度私が脚を振り出せば遙の脇腹にヒットする。左足に血液が集まりじんじんと熱くなっていくのを感じ、脚を組み替えた。

 しかし私にも落ち度があったのかもしれない。シャンプーはこれ使って、と言わず「適当に使って」としか言わなかったのだから。でも、あの大事なシャンプーは、棚の一番奥底で何本ものボトルにうずもれていたはずじゃないか。私がちらっと目をやった時、背の低い紫色のボトルが二本、寄り添うようにして隠れているのが見え、その手前には私が毎日使っている、量販店の特大シャンプー、リンスががどしんどしんとと幅をきかせていたから、まあ大丈夫、まずそちらを使うだろうと思ったのだ。それにいちいち安い方のシャンプーを使ってなんていうのはせこくて、気が退けたたし……。なのにわざわざ遙は奥から引っ張り出して、そっちを使ったのか。

 折角怒りが沈下しつつあったのに、そんな思いつきが油になってまた燃え出した。

 ふうっと鋭く息を吐いたが、遙は別に振り向きもしなかった。安堵と苛立ちがぴりっと私の神経を焦がす。遙の頬はゆでだこのように赤く上気し、肌のキメを粗く見せていた。化粧を落とした遙の顔は幼く、髪からいちいちその香りがこぼれる度、顔とのそぐわなさが私の怒りを再燃させた。その香りは、普段の倍の時間をかけて普段と同じ濃さの化粧を施して、とっておきのワンピースを着て庸平の前に現れようとする私の髪からこぼれるべきものじゃないか。私だってデートの前日にしか使わないんだ。あのシャンプー。ちょっとした香水と同じ位の値段するんだから。華奢な遙の身体は横から見て驚くほど凸凹が無く、私が着るとピンと横に張って若干太るピンクパンサーは今、布地の中で、ひょろひょろとその身を泳がせている。その華奢な身体は武器にもなるけれど、その実、脱いだらがっかりなかんじだ。板チョコレート。そんな文句を思いついたら、自分の毒に自分で酔って、うっとりとする。蛇の舌が伸びて遙の喉や脇腹やら柔らかいところを狙って突いていく。そんなイメージを思い浮かべるとかえって神経のエネルギーがそちらにもっていかれる分、怒りは冷め、頭の中が透徹に冴え渡っていく気がした。

「テーブル、きれいになってるね。ごめんね一人でやらせちゃって」

 遙の言葉に私は無言で微笑した。こうして微笑めば微笑むほど、私の外面と内面の落差は広がり、何も知らない遙への優越感が染み渡る。優越感は私をエレガントにする。今、彼女の脇腹に左足をのめりこませるのは得策ではない。私が抱え持っている醜い感情なんか遙に悟らせず、相変わらず遙に私を憧れさせたままで、遙に何か、屈辱を与え返すのだ。つまり、私がやったと気付かれぬ方法で。

「じゃあ次私入ってくるね」

 さっぱりと言い残して私は風呂場に消えた。

 やはり薄紫色のボトルはシャンプー棚の最前列に現れていた。それを奥に戻しながら、そもそもこのシャンプーは庸平への初デートの前日に、生まれて初めて足を踏み入れた銀座のデパートで、庸平にふさわしい女の子になるぞと誓いながら、奮発して買い求めたものじゃないか、と思い出し、シャワーの首が折れるほど強く握り締めた。シャーと水が落ちる音に隠れて何度も溜息をつきながら、再燃する怒りを冷ました。私の怒りはそうやって延べて叩いて冷ましてを繰り返すうち、はじめのとぐろを巻くような荒々しさを失い、安定した、息の長いものへと固まっていくのだった。

 風呂場を出るとテレビの騒音が聞こえてきた。テレビに口から魂を抜かれたようにぽかん、と口を開けている遙の呆けた横顔が、笑えた。真横から見た遙の顔は身体同様メリハリが無く、目も鼻も、やる気の無いゆるい曲線を描いているに過ぎない。竹下夢二の女人画みたい。というか、これだけ魅惑的な本や雑誌があるのに深夜のつまらないテレビなんだ、と思っているとこっちを向いた。

「もう寝る?」

 私が聞くと遙はこっくり頷きテレビを消した。私はテレビが嫌いなのだ。

 同じ布団に入り、私が右、遙が左の壁際に横になった。おやすみ、と言って電気を消したが私に寝る気は更々無かった。遙は私に場所を空けようとしてか、壁にぴったり沿って、棒のようにまっすぐ仰向けになっていた。はやくも数分後にすうすうと寝息を立て始めた。彼女の体積によって、ぶあつい掛け布団の表面は殆ど盛り上がっていない。仰向けの彼女は薄っぺらい。その髪から漂う例の香りが至近の私の鼻をいちいちつつく。彼女の方を向いて横向きになり、彼女が大事に大事にしているそのなけなしの睫毛を一本一本抜き取る妄想を膨らませながら、彼女が熟睡するのを待つ。一重まぶたはつまんだ睫毛の根元を頂点にゴムのように伸び、いじらしい弾力によってしばらく抵抗を続け、それからパチンと元に戻るだろう。そして瞼の縁はひりひりと熱を持ち、愛らしい赤が染み渡るのだ。私は夜目に彼女を観察しながら、時が経つのを待った。

 蛍光表示のデジタル時計が一時を示した時、私はなるべく布団に空気を入れぬように全身をずりずりと右にスライド移動させて、ベッドから出た。自分が右に寝たのは、「遙がベッドから落ちないように」と壁際をゆずったフリして、実はこのためだった。私は明るいうちに場所を記憶した彼女の鞄を手探りで見つけ、抱きかかえると、忍び足で風呂場に向かった。勝手知れたる自分の部屋、明かりが無くとも道筋は分かる。条件反射のように息を殺し、つま先立ちになる。自分の部屋で泥棒の真似事をする、という、その倒錯に、悪事の匂いに、胸までせりあがる興奮を覚える。風呂場にたどり着くと、正面に鎮座するトイレの蓋の上にとりあえず鞄をおろし、振り向いてひそやかに戸を閉めた。トイレと洗面と風呂場がひとつづきになっており、バスタブに残る例の甘く濃い匂いはずうずうしくこの空間全体を占領していた。洗面台の鏡についた、小さな電灯だけをつける。戸が半透明だから、風呂場全体の電灯をつけてしまうと遙が起きるかもしれないのだ。みかん色の電灯がぼうっと照り、鏡に映る私の顔にぬらぬらと濃い陰影をつけた。懐中電灯でよくやる悪ふざけを思い出した。同じみかん色が私の手の甲も温かく濡らし、指の間に逃げ込んだ濃い黒とグロテスクな対照をなしていた。薄赤いエナメルでつやつやした爪先が、泥棒としての私に根拠無い自信をもたらした。普段とは違う光に照らされ、手も顔も自分のものではないような気がした。八本の細長い指先は蜘蛛の足のように伸びて、カバンのジッパーをつまみ、ひっぱった。

 その時なぜか私は庸平の部屋を思った。CDと音楽雑誌とギターとカップ麺の空き容器がすっころがった、一人暮しの男の乱雑な部屋が思い出された。……それが何故かは一瞬後に分かった。ジッパーを開けた瞬間にあふれだしたと思われる、濃厚でクセのある、なにかわからないものがいろいろブレンドされたなんとも言えないその匂いは、明らかに、庸平の部屋と同じ調合だった。まさか……………………。しかし疑り深く嗅ぎ分ければ、煙草の匂いはキャスター、すれ違いざまに銘柄を特定できるほど、濃厚に甘いバニラの香り、お香の匂いはプルメリア、おしつけがましいほど甘ったるい花の香り、庸平は世界最高のお香だと言うが何度嗅いでも私は好きになれない、ただひたすら甘ったるいだけだから――吸い殻とお香の燃えかすが山のようにたまった彼の部屋の灰皿が嫌でも連想された。訳も分からずカバンをまさぐるといやなものが見つかって反射的に指が退いた。ブラだった。キレイにたたまれているものの袋にも入れず直にカバンに押し込められていた。部屋に生で置くのも、袋ちょうだいと私に言うのも気が退けて、というか恥ずかしくて、カバンに突っ込んだと思われた。遙らしい。私の人差し指がカバンからそれをひっぱりだし、つまみあげ、みかん色のもとに晒す。明らかにAと分かるそれは慎ましいふくらみを持っていた。……しかしよく見ると、いっぱしに花の刺繍やチュールレースなどの細かい装飾が盛りこまれた、意外なほど上等なものだった。

 あまりの自分の想像の速さに自分で眩暈がした。その時私の想像は、最も遠い、最も極端なところへ、一瞬で飛んでいったのだ。

しかし、あの板チョコレートが? 

 ……私の想像を裏付けるように、庸平の部屋の香りはそれから一番濃く漂ってくる気がした。でも気のせいかもしれない。トイレで嘔吐する人のようにかがんで便器を抱え込み、カバンの中に鼻を突っ込んだが、すでにその香りは拡散してしまい、どこが発生源かは分からなかった。怒りというか、疑念の断片が何十もいっぺんに現れ、私の神経を、踏み荒らしていった。私は本当に吐きそうになり口から喉まで大きく開けてぜーはーと呼吸をした。

 なぜ、二人が二人とも、私が最も嫌がることをしてくれた……? 

 自分を支える突っかえ棒を二本もろとも挫かれた気がした。

 遙は私のことを好きじゃなかったの? 私になついてくるから、私は気を許して、可愛がっていたのに……。庸平は、実はああいうのが良かったの? あの、脱いだらがっかりが? 私の身体誉めておいて……。嘘? 頭悪い女嫌いというのも?  

 仮説の上に仮説が乗っかり、焦燥と不安が自己増殖していった。それを断ち切るためにまず最低限分かっていることだけを分かろうとした。「遙は庸平の部屋に行った」。少なくとも。……でも男の部屋に女が行ったらどうなるかくらい、決まっているじゃないか。いや決まっていないのかもしれない。だって遙は私と庸平が付き合ってること知ってるし……。第一ひとりで行ったとも限らない。サークルのみんなで庸平の部屋に集まっただけかもしれない。でも、だったら私に言ってくれたらいいじゃないか、遙も、庸平も。遙の今日の素振りがこまぎれに脳裏に蘇る。友達の彼氏と寝て、その足でそ知らぬ顔して友達の家へ上がりこむ……そういう女の素振りだったのか? いつも通り後ろめたそうで自信が無さそうな遙の様子は、それならばまだ、私への罪悪感を感じきれない申し訳なさそうな様子、ととったほうが似つかわしかった。じゃあ後ろめたいことでもしたのか? ぐるぐると同じところを空しくまわる私の頭の中に、突然鮮やかな色彩をもって、あの遙の妖艶な笑みがフラッシュバックした。あれは……、私が遙にとるような立場を遙が私に一瞬だけとってしまった、ただひとつの芝居のほころびだったのではないか。つまり……、遙は一瞬だけ私を見下ろし、同情していた……??

 私は髪を引っ掻き回し、気の済むまで引っ掻き回し、気が済まずにカバンの中も引っ掻き回した。ガチャガチャと乱雑な音が派手に鳴り散らされた。夜中の一時の死んだ静寂で唯一熱を持った音だった。その音は私をひるませた。遙を起こしてはいけないと思った。私の指は少しだけ冷静さを取り戻し、暴走を止め、でも化粧ポーチの中身を知ろうとして勝手にチャックへ伸びた。中からはシンプルな化粧品がいくつか出てきた。見覚えがあるものばかりだった。だって私がすすめたものばかりなのだ。化粧は私が全部教えたんだ。……忠実な家臣だ。

 ひとつだけ見知らぬものがあった。それはポーチの奥底に大事に大事にうずめ込まれていた、小指ほどの大きさの小箱だった。ブランドのロゴと薔薇模様が散る、愛らしい化粧箱にはリボンがかかり、まだ開封されていなかった。中身は香水だ。そう直感したとたん鼻が利いて、ツンと刺すアルコールと、ゆったり広がる花の香りに気付いた。その香りは……、ローズ。

 ……ただひたすら甘ったるくて、くどいだけの。

 ……。

 ……庸平は甘い香りが好きだ。……そう、甘い香りが好きなのだ。私は気付けなかったのだ。負けたんだ。辛さなんて求めないんだ、甘いだけが好きなのだ、彼は。私が遙に求めていた甘さを。私が彼に与えなかった甘さを、彼が遙に求めたんだ。悔しいのと裏切られたのと、あらゆる剥き出しの感情が恥ずかしげも無くバリバリと自分の心を蹴破って、暴れまわった。その時ほんの少し前の自分の言葉が降って来て、私の頭をガツンと打った。「庸平が女の子と二人で会っても、いやじゃない」

 ……忠実な家臣。彼女は悪くないのかもしれない、というかきっと悪くない。学生が手を出すには高級すぎるその香水の小箱は、庸平と遙の気持の落差を感じさせた。きっと彼女は処女だ。もしかしたら遙、私が全然嫉妬なんかしないと思ってたんじゃないの。私のこと本当に崇拝してたんだから。

 でももう私は遙に崇拝され続けるのは無理だった。自分を素敵なパッケージで包むことに失敗したんだから。 

 私は彼氏のケータイチェックをするような女になりさがるだろう。

 私は彼女のカバンから何も盗らなかった。

 でも明日になれば、遙の前で自分の感情を包み隠すことは出来ず、さっさと追い出してしまうだろう。

2008年 / 18,252字(51枚)

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