platonic love,
plastic love.

 今がずうっと昔になった、はるか先の先のお話……。

人々は歌い、奏で、そして恋をして、まるで童話のような美しい暮らしをしていました。永遠の愛を誓い合った二人は、お城の庭にある井戸へと連れ立ち、祈りを捧げるのでした。そして、お城の庭に咲き乱れる薔薇の棘で互いの小指を傷つけあい、白い絹のハンカチーフの端と端に二人の血をつけると、深い井戸の中へと放り投げるのでした。二人の愛が神様に祝福されると、やがて、コウノトリが可愛い赤ん坊を運んでくるのでした。

 人々は教会を囲むようにして家を建て、街をつくり、つつましいながらも十分に恵まれた生活を営んでいました。というのも、毎日三回行われる教会の礼拝に参加すれば、誰でも温かい食事が振る舞われたからです。それは街の住人でも、見知らぬ旅人でも、分けへだてありませんでした。だから人々は、自分のやりたい職業に自由について、ちょっぴりの贅沢をするためだけのお金を稼げば良かったのです。木こり、狩人、旅人、吟遊詩人、チェロ弾き、鍛冶屋……、そして夜には皆、劇場や音楽堂に集まって、笑い、踊り、芸術のための美しい涙を流すのでした。

 しかし、一番の楽しみと言えば、それは恋でした。みんな暇で、そして、男も女もたくさんいたからです。それから何より、皆に一番人気の娯楽、街の中心の大劇場「プラネタリウム座」で繰り広げられる恋愛劇に、誰もが憧れていたからでした。

 その劇場でもっとも名の売れている女優はシビルと言って、まだ十七歳の娘でした。雪のように透ける白い肌、深い泉にも似た菫色の瞳、深紅の薔薇のような唇、しなやかにのびた手足を持った、大変美しい娘で、人々は「まるで人形のようだ」という賛辞を込めて「ラヴリー(可愛い)・ドール(人形さん)」と呼んでいました。

 彼女は七色の役者でした。王子様のキスで目覚める白雪姫を演じれば、うっとりした娘達の溜息で、客席中に甘い匂いが立ちこめ、妖精パックに扮した彼女がキュロットと木靴を履いて、男の子のように駆け回れば、笑い声が弾け飛んで劇場の壁を何度も跳ね返るのでした。そして彼女がヒバリのような可憐な声でロミオへの愛をささやいて、薄い胸に短剣を突き刺せば、劇場全体が湿り気を帯びて、天井さえしくしくと泣き出しそうでした。満ち足りた人々の涙は現実のために流されることはなく、芝居のために大いにとっておいてあったのですから。

 さて、その劇場を見渡すようにして、小高い丘の上に立つお城には、王様とお妃様、そして王子様が住んでいました。王子様はそれはそれは美しい青年でした。誇り高いけものの毛並のような美しい金髪、大理石を削って造ったように整った顔立ち、サファイヤのようにきらきら輝く澄んだ二つの瞳、そして、王子にふさわしい、きりりとしたたたずまい。

「まるでギリシャの彫刻のようだ」

「いやいや昔ロンドンという街に建っていた純金の像のようだ」

 人々はそうほめそやしたので、いつしか「幸福の王子(ハッピー・プリンス)」と呼ばれるようになっていました。

 しかし、王子の日常は、世の人々の憧れるようなものだけではありませんでした。というのも王子は、この世の中で唯一人、働いている人だともいえたからです。

 華やかなパレードや舞踏会を除けば、王子の仕事場は井戸の下の地下室でした。人々が井戸だと思ってハンカチーフを落としているあの穴は、実はこの部屋に続く深い穴だったのです。ハンカチーフの血液から二人の「血すじ」を調べ、末永く幸せでいられそうな恋人同士を決めるのが仕事でした。そこから二人そっくりの赤ん坊をつくるのは、お城のてっぺんの塔にいる王様の役目でした。塔の中には、昔のご先祖様が遺していった、見えない歯車が無数にかみあう、運べないほど大きくて重い銀色の箱が隠されており、それを動かす仕組みは代々の王様以外知りませんでした。箱から生まれた赤ん坊を、足に小さな鉛をつけたコウノトリに運ばせ、二人のもとに届けるのは、お妃様の仕事でした。教会の食事に混ぜる、「何も知らないままでいる薬」をつくるのは、家来の仕事でした。三人とも毎日くたくたになりながら働いていましたが、仕事を家来に手伝わせることはしませんでした。「絶対に王族以外に秘密を知らせてはいけない」というのが、先祖代々の掟だったのです。何しろこれ以上この国の人が増えてしまったら、この暮らしは続けていけないのです。家来が秘密を知ったら、最近なかなか来ないコウノトリを待たずに自分の子を欲しがるに決まっています。お妃のスカートの下にある秘密、王子がそこから生まれたという秘密は、この王族の家族以外、誰一人知るものはいませんでした。

 さて、そんな王子の耳にも、ふもとの街の劇場にいるシビル・ヴェインの噂が入ってきました。「ラヴリー・ドール」と呼ばれる、人形のように美しい娘を一目見たいと思い、王子もプラネタリウム座に出かけました。それから、あれほど多くのハンカチーフを井戸に落とさせる、世の人の憧れる「恋の劇」というものを、覗いてみたいという気持ちもあったのです。

 その日の演目は「茨姫」でした。姫が百年の時を経て、王子のキスで目覚める時、観客は皆、甘いもやに包まれたようにうっとりと目を細めました。お芝居が終わると、無事に幸せを手にした姫に安堵したのか、涙を流す客もいました。王子も泣いていました。しかし、他の客とは違う色の涙を流していました。

「なるほど彼女は美しい。息を呑むほど美しい。しかし、彼女はいったいどういう気持ちで舞台に立っているのだろう。『幸福の王子』と呼ばれる僕が、実は幸福を配る側にいるように、恋する姫を演じて世の人の憧れを集めている彼女も、冷たい決意を隠していて、それが彼女を美しく見せているんじゃないだろうか。どんな女優よりすばらしい演技、しかし、いったい本当の彼女はどこにいるのだろう。そして、本当の僕はどこにいるのだろう。姫や王子に皆憧れるが、本当は、そうじゃない人こそ、芝居のような恋愛ができる。パレード、舞踏会……偽物の舞台の上なんてもう嫌なんだ。でも彼女なら、もしかしたら、分かってくれるかもしれない」

 客席の中で王子ただ一人が、現実の自分とシビルのことを想って泣いていました。しかし周りの人は、王子が美しい物語に胸打たれて涙していると勘違いし、

「やはり王子は情が厚い」

「涙ぐむ姿もお美しい」

とほめそやしました。

 お芝居が終わるともう真夜中でした。お城の地下室に戻っても、王子の涙は止まりませんでした。そばにあったハンカチーフでぬぐいながら、仕事にとりかかろうとすると、井戸の穴から、ぽたぽたと、七色の雫が落ちてきました。びっくりした王子が穴に近寄ると、今夜聞いたばかりの、あの、愛しい、ヒバリのように可憐な声が、聞こえてきたのです。

「…… 今日、三階の正面の一等席にいらしたあの方は、一体どなただったのかしら……? 一番遠い席だったけれど、あたしには見えた、あのお方が七色の涙を流すのが……。他にも泣いてたお客はいたけれど、みな涙は透明だった。あたしが舞台で流す、嘘の涙と同じ色。ああ、あのお方にもう一度会いたい。会って、お話がしたい。あの涙がどんな気持ちで流されたのか、面と向かって聞いてみたいの。何なのかしら、この気持ち……。どんなお客に言い寄られても、今まで絶対なびかなかったのに。『舞台裏で愛してほしいなんて思っちゃいけない』……分かっているわ、お母さん。私が演じるお姫様ほど、美しい愛を得る人はいないって。舞台の外にある恋は、全部真似事にすぎないって……。私は誰ともここに来ちゃいけないのよ、舞台の上で誰もが私を愛してくれるんだから、それでいいじゃない……でも、でも、どうしても、あのお方には会いたいの」

 王子の胸にまるで刃物を突き立てられたような痛みが走りました。思わず自分の使ったハンカチーフに目を落とすと、七色に光り輝いていました。王子はハンカチーフをよそに放り投げると、井戸から垂れている太い綱をひきながら、井戸の上まで上りました。

「シビル!」

 今度驚いたのはシビルの方でした。

「あなたは……王子様……?」

「舞台裏で愛してほしいなんて思っちゃいけない……、そんな悲しいことおっしゃらないでください。お姫様ではないあなたを想って泣いていたのです。私も王子などではありません。幸福などではありません。世の人に幸福を配り歩いて、自分のことは後回しになっている……そう、あなたと同じなのです」

 そう言いながら王子は、月光の下に立つ美しいシビルの姿を見て、抱きしめたいほど愛おしく思っていました。舞台の時よりも質素な身なりで、アクサセリもお化粧もしていませんでしたが、その菫色の大きな瞳が自分をまっすぐ見つめ、そしてその縁からこぼれる七色の涙は、月の光を受けて、どんな宝石よりもきらきらと輝いていたのです。

 シビルも、目の前の王子の美しさに息が止まるほど胸打たれました。想いを寄せた相手が王子だった、しかも目の前に現れて、私を想って泣いている。王子のサファイヤのように澄んだ瞳にうかぶ七色の涙は、月の光を受け、王子のどの勲章や装身具よりも高貴なきらめきを放っていました。

「僕は、本当のことを知っているのです。王族しかしらない、本当の恋の秘密を。それをあなたに教えたい。一緒に知りたい、お芝居に書かれていないことを。本当のあなたが恋する時を」

 それを聞いてシビルははっとしました。

「もしかしてその秘密というのは、お芝居の台本によく黒い墨をぬってある、そこに書いてあることと関係があるのですか? 茨姫が紡錘に刺される前の一頁、丸ごと塗りつぶされていました。本当は紡錘じゃなくて、ねえ、あのシーンは何があったのですか? 王子は目覚めた姫と何をしたのですか? あそこも黒く塗りつぶされて、キスとだけ書かれていたのです」

 言いながらシビルは、台本の墨で塗りつぶされたところを見るたびに感じる気持ちと、今、王子を前にした時の気持ちがよく似ていることに気づきました。おなかの下に、あつい何かがたぎってきて、おなかごと落ちてしまいそうになるのです。この感じをどうにかしたいのに、しかたがわからないのです。

「僕は知っているよ」

 王子様は庭の花畑の上にシビルを優しく押し倒すと、スカートの中にある秘密をさぐりあてました。そして自分の紡錘でその場所を、シビル自身にも示してあげたのでした。

 シビルも王子も幸せでした。二人の姿を見ているのは、ただ月だけでした。

「シビル、僕と結婚してください。お芝居じゃない、本当の恋を知る、本当の姫になってほしい。それでも、お芝居は続けて。僕は名女優を独り占めにする気はないよ。二人で世界を騙し続けよう。僕は偽の方法で世の人の子を配る。君は偽物の恋のやり方を振りまく。本当の方法で作った子は、世界でひとり、今、君のおなかにいる子だけ」

「これで子が生まれるのですか……? おなかに、子供が、できるんですか……?」

 シビルは急に不安になりました。

「大丈夫、この子は必ず幸せになる。姫になる君が不安になることはない。全ての妃がやってきたことだよ」

 王子様が優しく髪を撫でてくれたので、シビルは安心しました。何より、何かを求めてうずいていたおなかの下あたりを王子に満たされ、そしてそこに愛する王子の子が宿るというのは、とても理にかなった、素敵なことに思えました。

「私、芝居を辞めてもいいわ、だって、本物が手に入ったのだから……。でも、王子様がそう言うのなら、姫のまま、姫を演じることにします」

 シビルと王子は、心地よい疲労と気だるさに包まれながら、そのまま眠ってしまいました。

 やがて月が地平線の奥に隠れ、太陽の優しい光が二人のまぶたをおしあけました。王子は慌てて飛び起きると、しどけない姿のまま寝ぼけているシビルを揺り起こしました。

「王に見つかっては大変だ。近く、必ず使いをよこすから、待っていて。今夜のお芝居を見に行くよ。さあ、そろそろ守衛が見回りに来る」

 シビルはおなかの下にまどろみが残っているような気分でしたが、王子にせかされ、スカートをととのえるとなんとか走っていきました。

 その夜シビルが舞台に立った時、どの観客も一目で変化に気がつきました。雪のように冷たく白かった肌には生き生きと血が通い、頬には燃える炎のような赤みがさしています。深い泉のように落ち着いた菫色の瞳は、もっといろいろな色が複雑に溶けあい、まるで秘密を隠しているような奥行きが感じられます。ジュリエットの短剣を受け止めたあの薄い胸は一夜で膨らみを帯び、昨日までぴったりだった衣装のデコルテもしどけなくひらき、コルセットのリボンは結びきれずに垂れ下がっていました。小鳥のようだった可愛らしい歩き方も損なわれ、今や堂々と腰を振りながら大またでやって来る、野の獣のようなのでした。

 何よりまずいのは、その薔薇のような唇が開かれた時でした。

「あなたは愛しいお方だけれど、今夜のこの約束は嬉しく思いませんわ。

あまりにも慌ただしくて、あまりに無分別で、あまりに早急なんですもの。

『あれ光った』と思ったとたんに消えうせる、あの稲妻に、あまりに似すぎていますもの」

 ヒバリのようだったシビルの声は今や粗野なライオンのよう、ゴロゴロと喉の奥でうなって聞こえないと思ったら突然吠えるような抑揚をつけたり、まったくひどい有様でした。お客は半分帰りました。シビルにもそれは見えていました。それでもシビルは、まるでそれが見えていないかのように、らんらんと瞳を輝かせたまま、自分の演技にうっとりとしているように見えました。お芝居は大失敗でした。それでもシビルは最後まで、言葉を知らぬ百獣の王のように、堂々とうなり吠え続けていました。

 王子はまたもや涙を流しました。しかしその涙を見とめるお客さえ、しまいにはほとんど残っていませんでした。

「あの可憐で美しいラヴリー・ドールはどこへ行ったのだろう」

「もう二度と観ない、見納めだと思ったから最後まで観てやったんだ」

「まるで熱病か、色きちがいか、悪魔憑きみたいだった」

「俺は二番目だと思うな、まるで少女の清潔さがなかった」

 さんざんなことを言いながら立ち去っていく客たちの会話を耳にし、ぞっとしながら、王子は楽屋に向かいました。

 シビル・ヴェインは意外にも晴れやかな顔をしていました。王子はそれを見て、自分がひどいことをしてしまったという罪悪感が減った安堵と、ちょっぴりの苛立ちとを感じました。

「王子……ドリアン」

 シビルは王子の名を、自分の唇にとって蜜よりも甘いもののように長く引きのばして呼びました。そうされると、王子の苛立ちも引きのばされて、大きくなった気がしました。

「愛しいドリアン、どうしてだか、分かりますか?」

「何を?」

「私が今夜、こんなにまずかったわけを。これからもずっとまずいわけを。もう二度と、うまくやれないわけを」

 まずいということは分かっているのだと、王子は心の中で思いました。

「昨日までの私は、偽物に生きていました。この書き割りの空、プラネタリウム座のつくりものの星が、私のおもちゃみたいな世界の全てだった。……でもあなたがその世界を破ったの。気づいてしまったんです、ロミオの白塗りの下はぞっとするようなおじいさんだし、果樹園に射す月の光だってただのまやかし、そして、私の言うべき台詞は全て、恋する私の言いたいことではなかったの。……あなたに教えてもらった秘密の場所から、愛おしさが溢れて止まらないの。身体中が恋しているのに、口先だけで語るのなんて無理だわ。急に冷めてしまったの、出来なくなってしまったの。でも、もう、出来なくていいわ。恋のお芝居をするなんて罰当たりだもの。ああ言葉って、なんて芝居がかっているのでしょう。ねえドリアン、私の身体が聞こえますか。昨日が何度でも訪れるなら、もう恋の劇なんてやりません、それが本物の恋への私の誠意……」

 シビルの身体の奥底から湧く情熱は表面までせりあがり、肌はまるで何かを伝えるかのように熱っぽさを増しました。そして王子のぬくもりを求める腕が、王子の首にまわされようとした時、それはぴしゃりとはねつけられました。

「お芝居をやめるだなんて、とんだお芝居だね。シビル、昨日の君は素敵だったよ。可憐で、清純で、見事なラヴリー・ドールだった。でも今日の君は乱暴で、気ちがいじみて、とてもまずかった。獣のような吠え声も、わざとらしいデコルテも、頬の赤みも、肉屋に並ぶ売り物のようで、てんであさましかった。人形のようだとほめそやされた君はどこにいったんだい。今はもう、ちょっと顔が良いだけの三流女優じゃないか。お芝居を勝手に終えてしまった君に、もう愛される余地なんてないよ」

 シビルは言葉を失って、わけのわからないうめき声をあげながらでたらめに腕を振り回しました。

「待って、ドリアン、私、ちょっとおかしくなっていたの。今日はあなたのことしか考えられなくて、お芝居に気が向いていなかったの。次からは、ちゃんとやってみせるから。たった一回でそんなことを言うなんて、嘘でしょう?」

もう一度王子に触れようとした腕は、再びはねのけられました。

「昨日が繰り返されれば良かった。月の光の下で、君と僕は幸せだった。でも夜明けの太陽が君の秘密にそうっと光をあてた時、僕は初めて見た、正直ちょっと愛せないと思った。君のその饒舌な唇よりもっと赤く、蜜のように甘ったるい言葉よりもっと粘る……ねえもう少し、手入れすることはできないの? もっと美しいものだと思っていたのに」

 王子はシビルに背中を向けると、楽屋の扉に手をかけました。

「待って! 私がいけなかったの! お願い、私を捨てないで!」

 シビルが必死に王子を追いかけると、王子は肩越しに

「メロドラマみたいだな」

と言い捨てました。

 悲劇の終わりのような音をたてて、楽屋の扉は閉められました。 

 シビルは、おなかの中に鉛が打ちこまれて、それがどんどん重くなっていくような気持ちでした。

 シビルが次にとる行動を決めるまでに、そう時間はかかりませんでした。

楽屋には、劇で使うための小道具、化粧品、いろいろな薬などが置いてありました。シビルは美しい青緑色の液体が入った小瓶を見つめながら、王子のサファイヤのような瞳を思い出しました。二度と投げかけられることのない、どんな宝石よりも欲しかったあのまなざし。シビルの肌は昨夜からずっと、今もなお、王子のぬくもりを求めてざわめいていました。

「これを止めるには……もうこれしかないわ」

 シビルは小瓶を戸棚から取り出しました。

「お母さん、私はこれで女優になります。私の最後のお芝居を見届けてください。あの人は再び愛してくれるでしょう、透明な涙を流すでしょう。芝居も失い、恋も失った私が演じる悲劇の幕引き。醜いと言われてしまったら、せめて美しい方法で消えたいの。時は戻せないし止められない、だとしたらせめて……」

 シビルは小瓶のコルクを抜きました。

「愛して、ドリアン、永遠に……」

 シビルの唇がまさに毒に触れようとしたその時、窓から銀色の光が鋭く射し込んで、まばゆいばかりに部屋中を満たしました。

「ラヴリー・ドール、お嬢さん。僕は君の唇の薔薇色が青黒く沈むのを、黙って見ているわけにはいかないね」

 びっくりしたシビルが小瓶から口を離して窓を覗くと、月がシビルに話しかけていたのです。

「人間が秘密を秘密にしてしまってから随分と時代が流れたね。秘密を分かち合ったために不幸になる恋人たちを見なくなって久しいけれど……その分、狂う男女のドラマを観ることも減って、つまらないものだね。しかし君たちには秘密を知っても幸せになってほしいと思っていたのにな。ねえ、僕だけが、昨夜の君たちを見ていたんだ。君、少しは憎いと思わない? 秘密の後に愛を深めるのは女だけ。体中が愛にしびれてしまうのも女だけ。王子はすました顔をして、君の秘密を『醜い』とののしった。せっかく僕が隠してあげたのに。月の光でロマンチックに彩ってあげたのにね。その毒を飲んでもあの男を悲劇に酔わせるだけだよ。王子は君よりも自分自身を愛するに違いない。ねえ、僕に任せてよ。もしおなかの子をくれるなら、王子を月の光で惑わせて、君にぞっこんにしてあげる。昨夜のように何度でも抱き合えばいい。そのかわり、これから生まれてくる子は全部、僕にくれる約束だ」

 シビルは驚いて口もきけませんでしたが、はっとしておなかに手をあてました。「この子は絶対に幸せになる」王子はそう言ったけれど、もうその道は断たれたのでした。だとしたら月の望むまま子を渡しても、いいのではないかと思いました。

「秘密は甘い蜜の味がしただろう? 死ぬまで味わい尽くせるなんて、悪くない話だと思うけど」

 その時にわかに銀の光が弱まって、代わりに黄金の光が射し込んできました。

「シビル、そんなことをして何になるの? ねじ曲げられて愛されても、何が嬉しいというの?」

 今度窓辺に現れたのは太陽だったのです。

「私に子供をくれたなら、あなたには若さを差し上げます。王子の愛を知る前の、清い身体に戻してあげます。あなたは女優を続けられるのです。私には永遠を作ることは出来ないけれど、死ぬまで同じ朝が訪れる、即席の永遠を。あなたにだけ日の光をそそぐのをよして、老いることなくしてあげます」

 楽屋の中は月と日の光がせめぎあうように射し込んで、まるで夜と朝の戦いのようでした。くらくらするほどのまぶしさの中、太陽の言葉に導かれ、シビルは幼い頃のことを思い出しました。

 自分と同じく名女優だった母はお客と恋に落ち、相手が眠った隙に小指を傷つけ、ハンカチーフを染めました。しかし子をかすがいにしようとした母の企ても敗れ、男は間もなく母の元を去りました。「舞台裏で愛してほしいなんて思っちゃいけない」顔も知らぬ父への恨み言を口癖にして、醜く年をとっても劇場に居座り続けていた母は、ある日突然行方をくらませました。父を追ったのか、あるいは女優とともに人生の舞台も降りたのか。

 残された幼いシビルは、女優として愛されることに必死でした。劇場という狭い世界しか知らず、また他の世界を知る気も起らなかったのです。一番怖いのはすかすかの客席。若さが失われること。お客に愛されなくなること。

 王子の七色の涙を見る前まで、そうだったのです。

「私は女優でいたい。死で倒れるその時まで」

 一瞬にして夜が明けました。こんな清々しい朝を世界が迎えたのは、世界が生まれてから初めてでした。

 シビルは生まれ変わったような心持ちで、太陽に

「ありがとう」

と言いました。

「私の子供を大事にしてね。私は子供を持ってはいけない気がするの、母と同じく、芝居を愛しすぎているから」

 太陽は言いました。

「シビル、月を悪く思わないでね。彼は世の人の狂気を糧に光っているの。でもあなただけはどうしても、月に惑わされたくなかったの」

「どうして私を助けてくれたの?」

「ああシビル、一番愛する人に愛されないのは、私も同じだからです。私は月を……愛しているの。でも会えないし、触れられない。ただ夜明けの一瞬だけ、私は彼の背中を目にすることが出来るの……」

「なんてこと!」

 太陽も恋をしていて、しかも叶わぬ恋だなんて。

 太陽が恥ずかしそうに雲に隠れて光が弱まったので、シビルは少しだけ、太陽の悲しげな顔をうかがうことが出来ました。

「でもねシビル、私は自分の仕事をするしかないの。大勢の人が私を待っている。私を愛し、求めている。自分の本分を捨ててあの人の住む闇へ行っても、絶対にこのままを愛されることはないの。……それはあなたも同じなの。あなたは太陽と共にいるべき人間です。みんながあなたを愛しています」

 太陽はそう言い終えると、決意をこめるように雲から飛び出したので、もうシビルが表情を読みとることは出来ませんでした。

「ありがとう、太陽」

「こちらこそ、私を信じてくれてありがとう。ささやかなお礼に、王子の中のあなたの記憶も消しておきます。さようならシビル、もう二度とお目にかかれません。私が見たら、あなたは年をとってしまいますからね!」

 その後、その日は一日中、これ以上ないほどの晴れ晴れしい天気が続きました。

 シビルが一度失った名声を取り戻すには、たった一日あれば十分でした。以前にも増して美しい、透けるような白い肌、深い泉を思わせる菫色の瞳、深紅の薔薇のような唇、しなやかにのびた手足。ラヴリー・ドールは今まで以上に、世の人を恋の劇に夢中にさせました。

 書き割りの空、つくりものの星がきらめくプラネタリウム座の天井には、シビルの望みで太陽を模した照明がつけられました。偽物の天体に見守られながら、シビルは何度でも、偽物の恋の夢を世の人に振りまき続けました。

 まばゆいばかりの太陽に照らされたシビルに向けて、毎夜毎夜、三階の正面の一等席から熱いまなざしがそそがれました。シビルはそれに気づくたび、自分の肌がざわざわと騒ぐのを感じました。太陽は時を戻してくれたけれど、肌の記憶が消えることはなかったのです。

 あれほど欲しかったサファイヤ色の視線を心ゆくまで受け止めながら、シビルは狂おしいほどの喜びと満たされなさで引き裂かれそうになりました。

「でもこの身が裂けても言いますまい、

 あなたと私が過ごしたあの夜の秘密は、墓場まで持ってまいります。

 真実は重くて辛く、みにくいもの。

 世の人には気軽で口当たりの良い、偽物を。それが私の誠意なのです……」

 お芝居の台詞を言いながら、シビルは、まるで太陽と月と同じ、死ぬまで近づくことのない舞台と客席との距離を思いました。シビルも老いず、王子も老いずに、見つめあい続けながら、いつか突然死ぬのでしょう。

 

 太陽はシビルの子供を空に上げ、北極星と名付けました。目まぐるしく位置を変える星達の中で、唯一じっとしているその子供は、夜に見た月の様子を一年中太陽にお話しました。

シビルが客席の中に七色の光を見つけることは、もう二度とありませんでした。




Inspired by 『ドリアン・グレイの肖像』(The Picture of Dorian Gray、1890)

2009年 / 10,566字(30枚)

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